昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

コルシカ島

コルシカ島ーレヌッチの消息

”コルシカ島のファーブルーレヌッチへの手紙” や ”コルシカ島ーレヌッチからの手紙” などレヌッチという人に関するブログを以前書いた。 レヌッチはファーブルのコルシカ島時代の教え子で、その後ファーブルと交流を続け 貝類収集の手伝いをしていた人である…

ファーブルの詩:数-神の理性(続)

巨大な蟻塚のごとき未知の世界、 そして新星輩出のすさまじい作業場、 溶解した核が宙吊りで浮遊させる 散りばめられた太陽の超自然的堆積、 未だ白熱する宇宙空間の物質を漂わせ 燃え盛る闘技場で一丸となり転げまわる。 彼らは、砂漠の砂塵と同様、渦を巻…

ファーブルの詩:数-神の理性

ファーブルは29歳の頃、コルシカのアジャクシオで「数」という非常に長い詩を書い ている。数学にのめりこみつつも、博物学とどちらかを選択しなければならなかった 時期である。しかしその詩の内容は、思いを才に任せ書き散らした印象も受けるので ファーブ…

ファーブルと数学

ファーブルは20歳台の頃、数学の魅力に取りつかれていたといっても言い過ぎでは ないかもしれない。一方で博物学にも強い興味を感じていたファーブルはどちらを 選択するべきか迷っていた。将来に向けていったい自分はどちらを専攻すれば良い のか、若いファ…

コルシカ島のファーブル:モキャン=タンドン(続々)

以前のブログでタンドンの写真を掲載したが、写真撮影のその日からちょうど一年 後の1863年4月15日に58歳の若さで逝去している。 ファーブルの師、植物学者のルキアンも63歳とファーブルに比べるとかなり若くして 逝去しており、二人の死因は何だろうとずっ…

コルシカ島のファーブル:モキャン=タンドン(続)

博物学者モキャン=タンドン (1804~1863) はファーブルの人生において重要な人物 の一人なのでもう少し述べておきたい。 そもそも日本語表記はモキャンなのかモカンなのか?集英社版はモカン=タンドンの 表記である。大正期叢文閣版はモカン、岩波の山田吉…

コルシカ島のファーブル:モキャン=タンドン

以前のブログで、ファーブルのルキアン宛ての書簡内容が、ファーブルにしてはやや 強引ではないかと書いた。本来はルキアンのように島全体を移動しながら植物や貝類 など採集するのが理想だが、教師をしながら決して金銭的にゆとりのあるわけでも ないファー…

コルシカ島のファーブル:レノゾ山

忙しさのせいにしてなかなか筆が進まない状態だ。小生の体力で日曜まで働き続け れば体調を崩すのは目に見えている。働けるというのは有難いが、いつ楽になるのか 分からないのでは気分が晴れることもない。 それでも先日、ファーブルの原稿が海外で出品され…

コルシカ島のファーブル:ルキアンへの書簡(続々)

コルシカ時代にファーブルからルキアンに宛てられた書簡は23通残っている。 ファーブルの動向を知るにはとても参考になるのでもう少し続ける。 「1850年10月13日、カルパントラからアヴィニョン宛て、17通目の書簡」 拝啓 カルパントラの数学教師エイセリッ…

コルシカ島のファーブル:ルキアンへの書簡(続)

引き続き、ファーブルのルキアン宛て書簡の中から内容を紹介していく。 すべての書簡を紹介出来れば一番良いのだが、特にファーブルの心情の表れている ものを抜粋した。残念ながらファーブルが受け取ったはずのルキアンからの書簡は残 っていないようだ。 …

コルシカ島のファーブル:ルキアンへの書簡

コルシカ島時代のファーブルの動向には非常に興味があるのだが、ルグロ博士の ファーブル伝を読んでもあまり詳細には書かれていない。学校や生徒たちのこと、 病気の事、もちろんコルシカの自然、貝類や植物の収集、そしてルキアンのことなど 若き日のファー…

エスプリ・ルキアンとは誰か

アヴィニョン生まれの植物学者エスプリ・ルキアン (Esprit Requien 1788~1851) という名前を知っている人は、ファーブルについての知識がかなりある方だと思う。 小生も昆虫記やファーブルの伝記など読むうちに、この変わった名前の人物を知った のだが、…

コルシカ島ーレヌッチからの手紙(続々)

レヌッチからファーブル宛のもう一通の手紙は1853年11月8日の日付である。 一通目の手紙から1年8ヶ月も離れている。 この間どの程度やり取りがあったかは不明である。 ファーブルはマラリア回復後に約束通りいったんコルシカ島へ戻るが、数ヶ月で アヴィニョ…

コルシカ島ーレヌッチからの手紙(続)

(一通目の手紙…続き) このように、まず発熱があり、次に試験があり、また最後に熱が出たという訳で、 長くご無沙汰していたのには3つの正当な理由があるのです。 先生はわたしにドノヴァニィ巻貝と二枚貝のスケッチをお尋ねになりました。 もしかしたらわ…

コルシカ島ーレヌッチからの手紙

ファーブルはコルシカ島赴任中にコルシカの貝類学および植物学についての出版を 計画していた。そして地元の協力者を得て貝や植物などの収集に励んでいた。 美しい自然を前にしてファーブルの若き探究心は無限に膨らんでいたことだろう。 まだこれといった業…

ポールの写真

もうしばらく前になるが、やはり海外のサイト経由で書籍を購入していた時に、 あるフランス人の方と知り合いになった。 そのサイトで何を買ったか忘れてしまったのだが、たぶんファーブルの古い教科書 など購入したのかもしれない。わざわざ日本から何冊も頼…

コルシカ島のファーブルー レヌッチへの手紙(続)

親愛なるレヌッチ あなたが勇敢な探検家レヴィとともに用意してくれた荷物を受け取った時、 私は前代未聞の高熱にうなされベッドに寝たきりでした。 私はあのツグミの腿肉さえ食べられなかったのです。 ハーブティー以外何も他にとることなくほぼ2週間を過ご…

コルシカ島のファーブルー レヌッチへの手紙

ファーブルは身体の丈夫な人だった。 その彼が晩年を除いて生涯に2度倒れている。 最初がコルシカ時代のマラリア感染。 2度目が息子ジュールを失った時の重症肺炎。 マラリアについては本土で休養し驚異的な回復を示し 島に戻るが結局アヴィニョンの高校へ転…

コルシカ島のファーブル

ファーブルは1849年25歳の時、コルシカ島のアジャクシオに物理の教師として 赴任した。コルシカ島でのファーブルの逸話としてモカン=タンドン教授から カタツムリの解剖の手ほどきを受け、その後のファーブルの方向性が決まった という話は有名だ。 しかし…