昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

コルシカ島ーレヌッチの消息

コルシカ島のファーブルーレヌッチへの手紙” や ”コルシカ島ーレヌッチからの手紙”

などレヌッチという人に関するブログを以前書いた。

レヌッチはファーブルのコルシカ島時代の教え子で、その後ファーブルと交流を続け

貝類収集の手伝いをしていた人である。小生がファーブルの資料を集め始めた頃に、

昆虫記原書に同封されていたレヌッチ宛てのファーブルの書簡を偶然見つけ、初めて

彼の名を知った。当時は調べてもレヌッチが誰なのか、さっぱり分からなかったの

だが、パリの自然史博物館にファーブルへ宛てた彼の手紙が残っていて、だんだんと

二人がどういう関係だったのか分かるようになった。

館にレヌッチの書簡が残っているということは、ファーブルが終生それらの手紙を

破棄せずに残しておいたということになり、彼との捨て難い思いが書簡には詰まって

いたのだと推測される。コルシカ島時代のファーブルは研究の協力者が数人いたが、

レヌッチ君は最も頼りにした人だったようだ。ファーブルがコルシカを離れて本土に

引き揚げた後の彼からの書簡は残っているが、その後、ぱたりと消息は途絶える。

小生はファーブルが貝類研究の出版を断念し、徐々に彼とも交流は減ったのだろうと

考えていた。そして、レヌッチ君がよほど有名にでもなったなら追跡もできるが、

170年も前の一般人を追うのは不可能だろうと小生は諦めてしまっていた。

 

ファーブルの晩年、セリニャンに滞在しファーブルとの貴重な会話を記事に残して

くれたペンネームがドルサン男爵夫人という作家がいた。大した作品は書いていない

ようだが、ファーブルの晩年の言葉を記録してくれていたことには感謝するばかりで

ある。カトリックとは異なるファーブルの宗教観を示す会話内容を記録してくれて

いたのも彼女だ。

先日、その彼女の興味深い記事を見つけたので一部紹介したい。

1923年12月のル・フィガロという日刊紙に掲載され、アルマスでの晩年のファーブル

の様子が書かれている。その中でレヌッチ君に関する話が出てきたので小生は驚いて

しまった。記事によると、昔、コルシカ島で教師をしていたファーブルは、お気に入

りの生徒だったアジャクシオのパン屋の息子ミシェル・レヌッチがどうなったのか、

1912年にあるジャーナリストに調査を依頼したというのだ。

何とファーブルはレヌッチ君を忘れてはいなかったのである。疎遠になりとっくに

忘れてしまっていたのかと思っていたが、90歳近くになってもコルシカの教え子を

忘れていなかった。しかも消息まで調査させていたとは…。

自分が衰え残りの人生がもう短いと悟っていたファーブルは、若くして交流の途絶え

たレヌッチ君がその後どんな人生を送ったのかまったく知らなかったはずだ。

そして可能なら彼に再会したいと、きっと思っていたに違いない。なぜならコルシカ

でのことはファーブルの人生の中の心残りの一つだったからだ。本土への復帰を望ん

でいたとはいえ、未完になってしまった研究や教え子たちとの交流、マラリア罹患、

植物学者ルキアンとの別れなど辛い思い出はたくさんある。貴重なタンドン教授との

出会いもあったが、悔しい思い出の方が多く、記憶の奥にしまったものはたくさんあ

ったことだろう。だからよけいに彼には会いたかったはずなのだ。

 

しかし、フィガロの記事によれば、調査の結果、レヌッチ君は1854~5年のクリミア

戦争で中尉となり名誉の戦死をしていたというショッキングな結果だった。

ファーブルとコルシカの教え子レヌッチ君は疎遠になったのではなく、レヌッチ君が

既に旅立っていたのである。自分の研究の熱心な協力者で生徒だった子が、21歳頃に

既にこの世を去っていたという結果を聞いて、ファーブルはどんな思いだっただろう

か。もっと早く彼の消息を調べるべきだったと後悔したのだろうか。

彼と約束したコルシカの貝類や植物の研究はついに出版できなかったが、昆虫の分野

で一生を研究に捧げたのだよと、あの世のレヌッチ君に話しかけたのかもしれない。

老いたファーブル先生は彼の戦死の報告を聞いた時、きっと涙されたことだろう。

 

クリミア戦争と聞いても世界史を習わなかった小生にはさっぱり分からないのだが、

同名の書籍が出版されていたので参考になった(以下、クリミア戦争 上巻 白水社

2015年より一部引用)。

この戦争は膨大な戦死者を出したにもかかわらず、その後起こった二つの世界大戦の

陰に隠れてしまい忘れられるようになったという。ロシア軍が50万人、フランスは

10万人、イギリスは2万人もの命が失われた。民間人も犠牲になり、砲撃で死ななく

ても餓死したりコレラなど伝染病でたくさん亡くなった。1854~5年頃と言えば特に

セヴァストポリの戦いは有名で戦争の分岐点となり、若き日の文豪トルストイも従軍

していたが、レヌッチ君はいったいどこの戦場で亡くなったのだろうか。そしてあの

ナイチンゲールとは遭遇したのだろうか。少なくともフランスの戦死者10万人の中の

一人であることは間違いない。

 

凍らない港が欲しいロシア、そしてトルコが持っていた聖地エルサレムの管理権を

めぐって正教会カトリックの争いは宗教戦争と言える。ロシアの南方進出を恐れて

敵同士の英仏が同盟を組みトルコと共に対抗する。黒海北岸のクリミア半島が主戦場

となり、このような戦争でレヌッチ君や多くの人が亡くなったのである。

この書籍によるとフランス南東部のある村の共同墓地には出征戦死した兵士のための

墓石が紹介されている。

 彼らは祖国のために死んだ。

 友よ、いつの日にかまた会おう。

故郷に限らず戦場になった地域には数多くの無名兵士の記念碑や墓地があるという。

レヌッチ君のようにもともと軍人でない人もこの戦争には多く参加したようだ。

小生はレヌッチ君の姿かたちも知らず、ただファーブル経由で知った人に過ぎないの

だが、戦死したというのは非常にショックな記事だった。普通に元気な若者が病気に

罹ったわけでもなく、簡単に命を落とす時代だったのだと思い知らされた気がした。

クリミア戦争戦没者名簿のようなものがあるかと思って探しているが、今のところ

見つからない。あればレヌッチ君の名前も記載されていることだろう。

前述のドルサン女史の記事にはレヌッチ消息の内容以外にも、晩年のファーブルの

興味深い様子が含まれているので今後紹介していきたいと考えている。

 

遥かなる戦場 [DVD]

遥かなる戦場 [DVD]

  • トレバー・ハワード
Amazon