昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

コルシカ島のファーブル:モキャン=タンドン(続々)

以前のブログでタンドンの写真を掲載したが、写真撮影のその日からちょうど一年

後の1863年4月15日に58歳の若さで逝去している。

ファーブルの師、植物学者のルキアンも63歳とファーブルに比べるとかなり若くして

逝去しており、二人の死因は何だろうとずっと思っていた。ルキアンについては数少

ない資料にあたるうちに、コルシカ島ボニファシオで脳卒中で突然に亡くなっていた

ことがわかった。タンドンについては、つい最近まで記載しているものに行き当たら

ず不明だったが、フランス植物学会の追悼文の中に死因が記載されていた。

 

小生の読み間違いでなければ、深夜2時に落雷の事故で亡くなったということだ。

なぜこのような深夜に雷に打たれたのか小生には不思議で仕方ないが、追悼文には

それ以上の理由については述べられていない。パリの4月は現在では日没が20~21時

ころ、いくら日の長いフランスでもさすがに深夜2時は真っ暗だろう。おそらく気温

も一桁でかなり低かったはずである。いったいタンドン先生は深夜のパリで何をして

いたのだろうか?室内で落雷のリスクは低いので外にいたことは間違いないが、何か

の会合にしても時間が遅すぎる。それとも倒れているのが発見されたり、逝去が確認

された時刻が深夜だったということなのか?先日、小生も帰宅途中に激しい雷雨に

遭遇したが、とても怖くて外になど出てはいられなかった。

 

タンドンが晩年在籍していた当時のパリ医学部はどこにあったのか?今のソルボンヌ

付近なら7区のエッフェル塔からそう離れていない場所だ。5区や6区に住んでいれば

塔まで数キロ程度。もしエッフェル塔が建設されていたなら避雷できていたのかも

しれない。残念ながら塔が完成したのは1889年、タンドン逝去26年後のことである。

ファーブルとタンドンの交流は、特に学位論文提出後はよくわからない。逝去した際

にはファーブルもショックだったはずだが、1860年代は学校もアカネ色素抽出の研究

も非常に忙しくしていた時期だ。家族を養い自身も生きていくので精一杯だったせい

なのか、タンドンに関するファーブルのそれらしい記事は見当たらない。

 

タンドンの履歴について、父方の名前の由来から熱心なカトリック家系ではないかと

前に推測したが、やはり植物学会追悼文によると、父方はフランス東部のジェックス

という場所の出身で改革派の宗教に属していたそうで、フランスでは少数派のプロテ

スタントということになる。ナント勅令(16世紀プロテスタントの信仰の自由と平等

を認めた勅令)の撤回に伴い、信仰を守りたいという思いで隣のジュネーヴに移住し

その後南仏のモンペリエに戻ったのだそうだ。

母方の祖母の系列のタンドン家には、モンペリエ科学アカデミーメンバーで天文学者

のバルテレミ・タンドンがいた。他に高名な吟遊詩人も居たりとタンドン教授の科学

及び文学両面への嗜好は遺伝的にも説明できそうで、実際タンドンは偽名で文学書等

も出版している。ところで、ファーブルがコルシカから本土に撤退した1853年は、

日本はと言えば浦賀にペリーの黒船が来た年だ。日本は鎖国状態で帯刀した武士も居

て、これが同時代というのは非常に想像しにくいのだが、ファーブルもタンドンも

そういった時代の方なのである。

 

集英社版の昆虫記第6巻下の月報を見ると、ルキアン博物館のピエール・ムレ氏の

文章が寄せられていて参考になる。以下にその冒頭部分を一部引用させて頂くが、

ぜひ全文を読んで欲しい。

「ああ、アヴィニョンよ!このすばらしい町のおかげで、貧乏だった私も学校に通い

小学校の先生になることができたのだ。私たちは、いっしょに大きな仕事をやりとげ

ることになるだろう。ここは、マラリアに罹って離れることになったコルシカのよう

な不毛の土地ではない。アヴィニョンよ、アヴィニョンよ、私はおまえのもとに

やっと帰ってきたぞ!」(大野英士氏訳)

 

小生はファーブルのコルシカ赴任が決まった際、給与は少し上がるし自然には恵まれ

ている島だし、ファーブルにとってこんな好都合な転勤はないと勝手に考えていた。

さぞかし若きファーブル先生は喜び、教育と研究に没頭できたのだろうと。

しかし、ブログで述べてきたように、ファーブルのルキアンへの手紙など調べるうち

に、ファーブルが赴任早々からコルシカ島からの脱出を希望し、ルキアンに働きかけ

行動していたことには非常に驚かされた。

上記月報引用文から、本土にやっと戻ることができた際のファーブルの溢れるような

アヴィニョンへの思い、喜び、強い愛着をみれば、なるほどと思わされる。

ここで仕事と研究をまた一から頑張ろうという意気込みが感じられ、そして実際に、

研究論文の発表、モンチョン賞受賞、学位取得、アカネ色素抽出の特許取得、工業化

の研究、市民への公開授業と目覚ましい活躍をしていくのである。

 

したがって、その後、愛着ある第二の故郷アヴィニョン不本意な迫害に遭い、失職

し、町から追い出されることになった時の落胆と悲しみは、さぞかしファーブルの心

に深い傷を残したはずである。小生はもちろんファーブルの笑顔を知らない。写真の

ファーブルはだいたい厳しそうな表情だからだ。晩年のアルマスでの生活でも、家族

でさえ話しかけにくいような気難しい面を持っていたという。

ペンだけで養わなければならない立場のファーブルがいつもニコニコできるはずも

ないが、やはり愛する町で受けた迫害や家族の喪失など多くの悲しいできごとが、

ファーブルの心に影を落としていたのかもしれない。もともとの性格もあって、年を

重ねるごとに誰とでも心を開けるような状態ではなくなっていったが、逆に言えば

そのおかげで研究に没頭できたと言えるのかもしれない。