ファーブルは身体の丈夫な人だった。
その彼が晩年を除いて生涯に2度倒れている。
最初がコルシカ時代のマラリア感染。
2度目が息子ジュールを失った時の重症肺炎。
マラリアについては本土で休養し驚異的な回復を示し
島に戻るが結局アヴィニョンの高校へ転勤となった。
貝類の本の出版も断念することになるが、以下に添付の
書簡はファーブルが休養中だった1852年時のもので、
その熱い胸の内をよく語っている。
(内容抜粋は次回掲載)
薄い紙に裏表びっしりと文字が並ぶ。サインも若々しい。
裏の字が透けていて見にくいのはご容赦下さい。
宛先はレヌッチというコルシカ在住の人
レヌッチという名前は島ではポピュラーなので人物を確定するのは難しいが、
当時19歳でファーブルの貝類の収集を手伝っていた元教え子と考えられている。
標本などの収集には地元の人間の助力が無ければ厳しかったと想像される。
交流があり生物にも興味を持ってくれる人となればファーブル先生の薫陶を
受けた卒業生というのは当然のように思われる。
これらのことはほとんど一般に知られていない話なのだが、
レヌッチ君以外にもレヴィ君など数人がファーブルを手伝っていたようだ。
それにしてもまだ業績も無く若い物理の教師に過ぎないファーブルが、
動物学、植物学などで知られる教授達(モカン=タンドン、ルキアン、
ルコックら)と交流を持ち書籍の出版まで計画し精力的に活動を
していたことには驚かされる。