昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ミルとファーブルの交流

ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)はイギリスの功利主義者としても

よく知られている。また、ファーブルが迫害されアヴィニョンを追われた時に、資金

を融通してくれたファーブルにとっては大恩人と言える。

借りた大金を後にファーブルは誠実に返済しているが、アヴィニョンで迫害され職も

失い途方に暮れたと言ってよいファーブルに救いの手を差し伸べたわけで、もしミル

との出会いがなかったら我々は昆虫記を読むことも、ファーブルの存在自体も知る

こともなかったかもしれない。

ミルは1858年冬に家族で南仏に滞在していたが、愛する妻ハリエットをアヴィニョン

のホテルで亡くしている。ミルは落ち込み元気を失くしたが、義娘ヘレンが亡き妻の

代わりにミルのケアをして精神的にも支えになっていたようだ。妻の墓があるためか

思い出の場所でもあるためなのか、ミルはその後もアヴィニョンに滞在することが多

く、イギリスと行ったり来たりしていた。アヴィニョン滞在時に、ちょうど無償で

市民に講義をしていた頃のファーブルと知り合いになったようだ。

功利主義については、最大多数の最大幸福という文言は小生でも知ってはいるが、

ミルがどういったことを主張していたのか未だよく理解していない。

論理学体系は見ても分からず、せっかく邦訳を入手したが小生では宝の持ち腐れに

なりそうな内容だ。それでも例えば、晩年残した宗教についてのエッセイやいくつか

興味をひかれるものがあるので、機会があればまた触れたいと思っている。

 

まあ、そんな畑違いのミルとファーブルがどういった交流があったのか小生には

気になるのだが、時々資料を探してはいるもののほとんど見つからない。

ミルはなぜ植物などに興味を持ったのだろうか、厳しい父親に幼少期から徹底的に

英才教育を受けてきたミルが、晩年になって自然とのつながりを直接求めたのなら

納得できる気はする。愛する妻が旅立った場所なら、なおのことでないかと思う。

 

ミルは1873年5月8日、ファーブルとの植物採集後に丹毒という当時南仏で流行して

いた感染症で急逝した。採集のために二人は15マイルほど歩いたとされているが、

66歳というミルの年で植物を探しながら歩き回るというのはどうだったのだろうか。

15マイルは現在でいうと24km程度になるのでかなりの距離だ。丈夫なファーブルと

違ってミルにとっては厳しい行脚になったのでないかと思う。

丹毒罹患後、ミルは急逝しているが、恩人を自分との植物採集後に失ったという

ことを数日後ファーブルは知って、その心中はいかばかりだったかと想像する。

もしかするとミル急逝の責任をファーブルは強く感じていたのかもしれない。

 

この最後の植物採集前にやり取りしたミルとファーブルの書簡が残っているので、

その内容を紹介しておく。今まで訳されてもいないようなので、拙訳で申し訳ないが

およその雰囲気を知ってもらうために掲載しておく。ファーブルはもちろんミルの

書簡も仏語で書かれている。重要な内容ではないのだが、当時の二人の関係性など

多少うかがい知ることができるかもしれない。

 

(ミルからファーブルへ)

1873年4月26日

拝啓、

予定より少し遅れましたが、あなたの探検の足跡をたどってオランジュ近郊で

植物採集を始めたいと思っています。あなたのご都合に合わせて、午前か午後に

一緒に用事を済ませられる日を調整していただけないでしょうか。

午後の場合、私は翌日までオランジュに滞在する手配をします。

どちらの場合でも、ホテルで一緒に食事をすることをお許しください。

 

(ファーブルからミルへ)

1873年4月29日

拝啓、

近々、オランジュ近郊で植物採集を計画されているとのことで、たいへん嬉しく

思っています。何日なら空いているかと聞かれましたが、ご都合の良い日なら

いつでも構いません。到着したらすぐにわたしを見つけられるように、一日か二日前

にお知らせください。

また、悪天候が続いていて植生がまだほとんど進んでいませんので、天候の回復を

待つのも良い考えだと思います。5月前半にお会いできることを期待しています。

わたしの家はアヴィニョンからかなり離れています。往復の時間を無駄にしないため

にわたしのささやかなおもてなしを、心をこめて提供させてください。

部屋は用意してあります。家族全員が喜んでお迎えいたしますし、あなたを高く評価

している善良な人々に最大の名誉を与えることになるでしょう。

あなたがオランジュに滞在される短い間、わたしはあなたを引き留めたいのですが、

あなたの習慣を乱さないためにも、どうしてもというわけではありません。

ただ、あまり遠慮されて断らないでください。

どの列車でご到着かお知らせいただければ、駅までお迎えにあがります。駅を出まし

たら線路沿いの道を右に進みます。すぐにカマレ道の踏切に出るので、線路を渡り

カマレ道に沿って5、600メートル進むと、左手、道の脇に古いプラタナスの長い

並木道があります。使用人の隠れ家はこの路地の奥になります。

最後に、ここ数日で良いものを二つ見つけました。一つはピオランの松林で見つけ

たジャンクス・カピタトゥス、もう一つはヨルダンキンポウゲです。

この立派なキンポウゲはモンスペリアクスに近いです。違った点は、絹のような長い

羽毛と、地面から放射状に伸びる小さな白い根茎です。オランジュの丘の砂地で見つ

けましたが、平地にはほとんど生えていませんでした。一対を用意しておきます。

どうか閣下、わたしの深い尊敬と献身の念をお受け取りください。

ジャン=アンリ・ファーブル

オランジュ

注:地図上でオランジュ駅からカマレ道路(Camaret)を書簡通りに進むことはできる。

プラタナスが切られたことに怒ったファーブルはここを出ていったので、今はそれら

しい木々は残っていないようだ。オランジュは歴史ある町でこの4~5km北西に

ピオラン(Piolenc) という地域がある。書簡にある松林がどこを指すのか不明だが、

地図で見るとピオランの北と南に広い林、森がたくさん残っている。

ジャンクス・カピタトゥス(Jancus capitatus) は Juncus の間違いではないかと思われる

が、邦名だとイグサ科の植物が近いようだ。モンスペリアクス(Monspeliacus) は

モクレン綱の分類が近いらしい。

余談だがピオランの東側5㎞ほど行くとセリニャン村がある。小生はなぜセリニャン

をファーブルは終の棲家にしたのかよく分からなかったのだが、なるほどオランジュ

やらピオランやら散策していれば、自然とそういった村の情報は耳に入って来やすか

ったのかもしれないと感じた(もちろん研究に適した物件があったからなのだが)。

また、書簡にあるオランジュの丘の砂地がどこなのか不詳だが、町中心部500m南に

現在はコリンヌ・サン=トゥトロップ公園があり、ここは小高くなっていて砂地も

あるのでこちらの可能性が高いように思われた。