昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

エスプリ・ルキアンとは誰か

アヴィニョン生まれの植物学者エスプリ・ルキアン (Esprit Requien 1788~1851)

という名前を知っている人は、ファーブルについての知識がかなりある方だと思う。

小生も昆虫記やファーブルの伝記など読むうちに、この変わった名前の人物を知った

のだが、著作の中でファーブルはルキアンについて多くを語っているとは決して言え

ない。しかし、父アントワーヌより年長で植物に詳しいルキアン(ファーブルの35歳

年上)とのコルシカ島での出会いが、博物学にまだ完全に目覚めてないファーブルに

与えた影響は非常に大きかったと小生は思っている。実際、植物のことだけに限らず

精神的にもルキアンに頼っていたのではないかと思わせる書簡が残っており、とても

興味深い内容なので、これらについては以降のブログで順次触れたいと考えている。

 

若きファーブルに影響を与えた人物の一人として、小生はルキアンの資料を収集しよ

うとした、というか今現在もしているのだが、ほとんど市場に出てこないのが現実で

ある。ずいぶん昔にオランダの書店のカタログでルキアンの書簡が大量に出ていたの

を見つけたが、発見が遅くとっくに売れてしまっていた。その後も探してはいるのだ

が、原稿は皆無、書簡が数点程度しか見たことがないという残念な状況である。

それでもいくつか入手できたものもあるので、ルキアンの筆跡など見てもらいたいと

思っている。日本ではルキアンについて詳しく書かれているものを小生は知らない、

およそ注釈的な記載であり、それをまたなぞるのでは小生がブログを書く意味がない

ので、今まで触れられていない内容を含め紹介しておきたいと思う。

 

ルキアンというのは決して稀な名前ではないが、例えば検索していてよく出てくるの

ラテン語のレクイエム requiem で、これは死者の鎮魂、安息などの意味がある。

エスプリの方は、霊魂、心の意味があるので、ルキアンの名前には宗教的な意味が

こもっているように思えるが、祖先をたどるとエスプリと言う名は父方の祖父である

エスプリ・ニコラ・ルキアン (Esprit Nicolas Requien 1742~1814) からもらったようだ

から、深い意味を持たせたのではないのかもしれない。

 

とにかくルキアンはバイオグラフィー的資料が少なくて困るのだが、ルキアン博物館

の資料によると誰が教えたわけでもなく、そして学歴があるわけでもないのに植物へ

の興味が非常に強かったそうだ。これは革職人の父親の影響が示唆されてはいるが、

明らかではない。また当時の有名な植物学者ドゥ・カンドールと交流があったが、

コレクションの中の植物学上の誤りを指摘したと知人への書簡で述べている。

特に収集にかけてエネルギッシュであちこちに出かけてはコレクションしており、

後に交流を深めるファーブルは彼の植物に対する豊富な知識、即座に品種名を特定

できる能力を頼りにしたが、一方で何か出版物を出して収集したコレクションを印刷

物として残すということはほとんどできていない。このアンバランスは同僚や交流の

あった学者たちは不思議だったのではないだろうか。

小生がさんざん探してもルキアンの書いた出版物や雑誌が出てこないのは当然で、

そもそも出してないのである。生前に貝類の書が1つ、肝心の植物に関わる冊子は

ルキアン死後に周囲の手によって出されたものだ。書簡の返信も非常に遅かったよう

で、返事を待つ者からするとなぜこんなに届かないのかいらいらしたという。

その一方で人柄は素晴らしく、行く先々で歓迎されており、特にコルシカでは各地で

友人が出来、ルキアンが別地区に移動する際はずいぶんと名残惜しまれたようだ。

ファーブルもコルシカ島ルキアンに会っているが、どんな状況で遭遇したのかは

はっきりしない。ただ両者とも博物学に大いに関心を持っていたわけだから、人づて

にでもすぐ導きあう関係にあったのだろうという想像はつく。

 

ルキアンは人望があり生まれたアヴィニョンに愛着もあって、市議会の仕事に早く

から携わっていた。そして収集も続けており、父親の革なめし工場の処分などで得た

資金を元手に各地から貴重書、美術品、化石、植物などの資料を集め続けた。

そういう意味ではルキアンは植物学者というよりコレクターと言った方が正しいの

かもしれない。集めた膨大な資料をアヴィニョンのカルヴェ財団に寄贈し、ルキア

は第二の創設者とまで言われ大きく貢献、博物的資料、古書についてはアヴィニョン

自然史博物館として美術館とは分けられ責任者となった。ここはルキアンの死後に

ルキアン博物館へと名称が変わり、ファーブルもキュレーター(専門職員)として

後に務めることとなる。

 

さすがに晩年は資金も底をつき、ルキアンはメイドのフィヌという人にアヴィニョン

の自宅売却又は賃貸の希望を伝え生活品も処分するよう指示している。

またこれ以外にも、当時のアヴィニョン市長ポンセルキアンは犬猿の間柄で政治的

に敵対関係にあった。赤字を抱える市は財団の管理に関わりたいという思惑があった

ようで、一方、ルキアンも市から派遣される職員でなく自前の職員で管理したかった

ようだ。ポンセ市長の政策に反対することも多く、ポンセルキアンを仇のように

思っていた。財団に対する嫌がらせと思われるようなこともされ、とうとうルキア

はもうアヴィニョンへ戻らないつもりでコルシカ島へと向かう。

 

1847年にルキアンがコルシカへ出奔永住しようとした原因がいくつか言われている。

一つは純粋に島への博物学的興味、他に上記のような政治的対立、自己資金の枯渇、

それから体調の問題が契機だったようだ(半年ほどルキアンは寝込んだことがあり、

胃腸系の病気だったが病名ははっきりしていない。長期に寝込む胃腸病など思いつか

ないが当時なら腸チフスだろうか?腸チフスなら死亡率の高かった病気だから治癒が

遅れても不思議でなく、むしろよく助かったというべきだろう)。

小生はコルシカに向かった彼の気持ちが少しは分かる気がするが、虫屋の方々などは

もっと共感できるかもしれない。つまり、くだらない政争にうんざりし責任ある立場

からも逃れ、自然豊かなコルシカで好きな採集を思う存分にやって、本を出すという

計画を持っていたようなのだ。出会ったファーブルも一緒に手伝い、自身でも植物や

貝類についての出版計画を持つようになったわけだから、コルシカはまだ手付かずの

魅力的な島だったのだろう。ファーブルがルキアンに送った標本を、自身がルキア

博物館に勤務した際に見た時は特別な思いがあったようだ。

 

ルキアンはコルシカ島では精力的に植物採集をしている。山中にも入っており徒歩で

主に歩き回ったということだが、怖くはなかったのだろうか。コルシカは当時、山賊

らが山にいて、よそ者にとって安全な場所ではなかった。彼の友人らもコルシカに行

くと聞いてルキアンに忠告した人も多かった。それでも構わず採集の旅を続けている

のだから大した人だと感心してしまう。コルシカは地図でみると南北に180㎞程ある

ので東京から新潟近くまで行ける距離である。しかも険しい山や森が多い地形だから

これを徒歩中心に歩き回るなどとんでもないと思うのだが、いったいどこから彼の

収集への情熱は湧き出ていたのだろうか。

しかし、島南端のボニファシオという場所でルキアンは突然逝去し、夢は終わりを

迎える。これは友人や彼を頼りに帰還を望んでいたカルヴェ財団の人たち、そして

もちろんファーブルにも大きな衝撃を与えた。あまりにも突然で予期できないこと

だったからである。小生は山中で山賊にでも襲われたのではないかと思ったが、

死因は脳卒中ということになっている。1851年5月29日夕方に直前まで元気だったが

その後急に倒れているので、脳梗塞というよりは脳出血かもしれないが、当時の死亡

診断なので何とも言えない。医師らの手当ての甲斐なく翌30日午前1時に63歳の若さ

で逝去。生涯独身であり幸せな家庭生活を築く道もあったはずだが、収集に人生を

捧げた人だった。もしかするとアヴィニョンでの政治的対立のストレスなどが重なり

血圧も高かったのかもしれない。

 

ルキアンの死後、1851年6月にファーブル宛ての書簡が残されている。無記名だが

財団などの関係者でルキアンに近い人からと思われる。

これによると、地元でのルキアンの葬儀は確かにアヴィニョン市が負担してはくれた

ものの、非常に淋しいもので列席者は少なく、彼を偲ぶスピーチや弔辞もないままに

散会となってしまったことに強い憤りを感じているといった内容を伝えている。

一方、亡くなったコルシカでは島を出発、出棺する前に盛大な葬儀が行われており、

アヴィニョンでの葬儀とは対照的に多くの市民や宗教関係者が彼を見送ったのだそう

である。墓には「Cor rectum inquirit scientiam 」という言葉が刻まれている。聖書に

あるようだが小生は知らない。「正しき心は叡智を求める」といった意味だろうか。

 

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ルキアン肖像、書簡に同封されていたものを掲載しておく。

横顔だが見たかぎり恰幅は良さそうな方である。

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ルキアン書簡、表面、宛先は不明、右上に1829年4月17日 アヴィニョンとある。

裏面が透けていて判読しにくい。文字は小さくて細かいが、几帳面か神経質な面も

あったのだろうか。

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同書簡の裏面、右下にルキアンの署名。

内容は政治的で、水量の多いデュランス川下流の危険性や岸の修理、堤防の計画に

言及(同川はアヴィニョン南側でローヌ川の支流、しばしば氾濫を起こした)。

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コルシカ島で自生または一般的に栽培されている木本(もくほん)植物のカタログ。

アヴィニョン、1868年、第二版、エスプリ・ルキアン逝去後に出版。

木本植物は tree 、草の方は草木(そうもく)植物と呼び英語では herb となる。

 

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