昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

コルシカ島のファーブル:モキャン=タンドン

以前のブログで、ファーブルのルキアン宛ての書簡内容が、ファーブルにしてはやや

強引ではないかと書いた。本来はルキアンのように島全体を移動しながら植物や貝類

など採集するのが理想だが、教師をしながら決して金銭的にゆとりのあるわけでも

ないファーブルは、慣れない島を移動できる範囲は限定されている。したがって、

ルキアンを頼りにしたり収集のために現地の協力者の輪を拡げるのは当然の発想で、

それを責められる筋合いなど実はあるはずもないのである。

(2002年に栃木県立博物館で ”プロヴァンス発見” という展覧会があった。小生は

残念ながら見逃しているのだが、このときファーブルのルキアン宛ての書簡が来て

いたようで、館のカタログに写真が掲載されていて貴重である。興味のある方は

古書で検索を。若きファーブルの熱意がこもった筆跡の書簡です)

 

ルキアンが1851年にコルシカ島で急逝したあと、ファーブルは深く心を痛めていた

ようだ。彼のために採取した植物を次々に準備していたようで、1851年6月の弟

フレデリックへの手紙では、”心が締めつけられて涙でぼやけた光景を見ずにはいら

れない” と書き送っている。急逝の悲しみはもちろんだが、本土への教職復帰への

手段を失い、コルシカの植物相をまとめるのも一人ではかなり困難になってしまった

のである。こうなれば、コルシカに来てからやはりファーブルが注目していた貝類の

研究へシフトしていくのは自然の成り行きだったように思われる。

 

1852年に植物調査でコルシカを訪れていた博物学者モキャン=タンドンは、昆虫記で

ファーブル自身が書いているように、カタツムリの解剖をファーブルの前で行ない、

数学ではなく博物学の道へ進むことを勧めたとされる人物である。

彼はルキアンの友人でもあり、自宅に泊めたファーブルはタンドンと意気投合する。

タンドンは南仏の言葉も得意で文学的な素養もあったので、いくらでもファーブルの

好む話はできたことだろう。ファーブルは植物学でルキアンを師としたように、貝類

はタンドンを頼りにするつもりだったのではないだろうか。二人はレノゾ山に一緒に

登り、タンドンの植物採集を手伝って親交を深めた。

 

ただ、このタンドン教授は厳しい面も持っていたように小生は思う。つまり他人への

評価がかなり辛口なのである。例えばパリで高名な植物学者などと出会ったことを

著作にもしているのだが、名前に見合うだけの実力のある人はいない、と辛辣だ。

友人のルキアンのことも、ルキアンは軟体動物の中にヒルを入れたりしており、分類

が甘いとファーブルへの書簡の中で言っている。自身はヒルの研究も以前していたの

で詳しかったのだろう。(また1855年に学位論文をファーブルは提出するのだが、

この際パリにいたタンドンを訪ねているが、コルシカであった時と違いフレンドリー

ではなかったようだ。どうしてそのような再会になったのかはっきりしていないが、

タンドンの厳しい一面なのかもしれない)

 

そして、タンドンがルキアンを批判した分類の問題、これは後年、ファーブルもまた

批判される際に必ず持ち出される問題である。小生には分かりかねるのだが、つまり

種の同定に不十分な面があって、厳しく分類をして研究している人から見れば、その

根本的な部分の甘さを見逃せないらしい。ただファーブルにも言い分はあるかもしれ

ない。なにせタンドンのカタツムリの解剖の講義が最初で最後の博物学のレクチャー

だったと自身が言っているくらいなのだから、高名な先生について研鑽してきた人達

とは違う。文献を十分入手する金銭的な余裕ももちろんない、何でも独学で進むしか

ないのだから間違いは当然出てくるはずである。

 

ファーブルはルキアンへの書簡の中で植物に関する文献を送ってくれるよう頼んで

いるが、同様にタンドンにも軟体動物に関する書籍などの文献を依頼している。

当時でも既に入手困難な文献も多かったようで、ファーブルが個人的に揃えるのは

もちろん困難である。コルシカの軟体動物研究に関するペイロドーの書籍はすでに

タンドンは送っており、他にどれが必要なのかとファーブルに問うている。

自分は500を超える資料を持っているがどれが欲しいのか?という内容で、少々厳しい

感じの口調だ。このタンドンの書簡は1853年1月なので文献を依頼したのはそれより

少し前になる。この頃はファーブルはコルシカ島からアヴィニョンに引き揚げた時期

なのだが、今まで調べた貝類の原稿をまとめて出版しようという意思がまだあったと

いうことになる。

 

なぜファーブルは、コルシカの貝類学の出版を諦めたのかはっきりしない。

資金の問題か、出版先が見つからなかったか、転勤先の教職が忙しくなったのか、

コルシカの協力者である元教え子たちに必ず出版することを約束していたが、なぜ

断念したのだろうか。もう熱病は回復していたはずである。

小生はやはりタンドンへ文献協力を求めていたように、調べていくほど分類は簡単

ではないことをファーブルが実感したのでないかと推測している。

これは当てずっぽうではなく、実際にタンドンが1855年にフランスの軟体動物の

自然史という三冊組みの立派な本を出しているのだが、そこでタンドンも分類の苦労

について述べているからである。

コルシカ島の貝類のマニュアル的なものをファーブルは作りたかったようだが、いざ

書籍にしようとすれば、これまで発表されてきた他人の研究にもひと通り目を通さな

くてはならない。文献を十分持っていなければ同定も難しいし、それぞれの文献にも

欠点があり分類の不備の歴史を知らなくてはならないとなると簡単ではない。

 

ファーブルは協力者にコルシカ島でよくある固有の人名など知らせてほしいとも

伝えている。おそらく固有種か新種だと思っているものに名前を付けようとしていた

のではないだろうか。しかし、わずかな違いで本当に新種なのかどうか、博物学の道

では新米に過ぎない若きファーブルが、指導者も持たずに自分で決定するのはさすが

に躊躇われたのではないかと推察する。教授になるにはお金がかかるということは、

後年ファーブルがしばしば耳にすることになるが、文献収集の問題一つをとっても

ハードルは高かったようだ。

界、門、綱、目、科、属、種などに生物は分類されるが、今までの研究を踏まえた

うえで、きっちり分けなくては手引書にはならないのだから、ファーブルのような

お金のない、研究室にも属していない独学者が乗り越えるのは非常に厳しい。

しかも、どこの出版社が引き受けるというのだろうか、資金もなし、そこまで貝類の

書籍のニーズがあるとも思えない。結局、ファーブルの貝類の研究は後に出版される

タンドンの書籍に協力することで、わずかではあるが実を結ぶことになり終わる。

 

熱意だけではどうにもならないこともあるというのは残念なことである、しかしこの

悔しい思いがその後のファーブルの研究につながるなら、この挫折は必要なことだっ

たのだろう。つまり、生物の収集、分類からは距離をおいて、ツチスガリの研究など

動物行動学といっていいような先駆的な研究にファーブルは踏み込んでいく。

狩りバチが獲物の神経節を刺して動けなくし子供の餌にするなどいったい誰が思い

つくのだろうか。特定の種の行動を深く研究するのだから、収集や分類だけに時間を

取られず、ファーブルは自分に合った研究方法を見つけていくのである。

逆にファーブルにもし潤沢な資金があり参考文献の収集にも苦労がなければ、植物、

貝、昆虫など集めることにファーブルも注力し、彼らがどう行動するのかなどという

ことに興味を持つのはずっと遅れていたのかもしれない。

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モキャン=タンドン肖像

1862年4月15日、パリの写真館にて撮影、左の立ち姿は珍しい。

晩年はパリに居たようで、写真撮影の翌年1863年同日に逝去している。

植物学者、博物学者、医学博士でもあり、コルシカでファーブルに会ったのは写真の

10年前になる。右写真は息子ガストンより旧蔵者が1872年にウィーンで受け取ったと

裏面にある。ガストンはクラゲの解剖など動物学の著作があり、父と同じ道を歩んだ

ようだ。