昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

コルシカ島のファーブル:ルキアンへの書簡

コルシカ島時代のファーブルの動向には非常に興味があるのだが、ルグロ博士の

ファーブル伝を読んでもあまり詳細には書かれていない。学校や生徒たちのこと、

病気の事、もちろんコルシカの自然、貝類や植物の収集、そしてルキアンのことなど

若き日のファーブルの思い出は、書こうと思えばもっといくらでも話はあったはず

なのだが、伝記ではさらっと触れているに過ぎない印象である。古い話で高齢の

ファーブルは忘れてしまったのか?それとも、病気で離脱しコルシカの貝類学や植物

学の出版計画も頓挫するという苦い思い出があり、封印したい気持ちがどこか無意識

にあってルグロ博士に伝わることがなかったのだろうか?

 

日本人がコルシカと聞いてそれほど身近に感じる人は少ないと思う。

せいぜいナポレオン一世の生誕地だとか、歴史に詳しい方ならセネカが流刑にあった

場所だというのはご存知かもしれない。ルキアンと親交のあったメリメという作家が

コルシカを題材に小説を書いていて邦訳もされているが、日本で爆発的に読まれて

いるというほどでもない。作家の大岡昇平がコルシカ紀行を書いているが、こちらも

失礼だがわくわくするような内容でもない。地理的にはイタリア半島のそばにあり、

フランス領だがイタリアの方が距離は近い。南北180㎞ほどで日本なら東京から新潟

まで行けそうな距離である。島と言っても日本のイメージとは違って寸法は大きい。

そして30万の人口であるが、東京都が1300万人を超えているので密度としては相当

低いことになる。ファーブルが滞在していた頃はもっと少なくて23万人程度なので、

日本で最も少ない県、今の鳥取の半分以下の人口である。

 

ファーブルは師範学校を卒業後、カルパントラの小学校の先生をしていたが、あまり

の安月給と子供相手の初歩的な授業に嫌気がさしていた。資格を持っている自分が

なぜこんな小学校で授業をしなくてはならないのか?と校長に書簡を送ったりして

いる。アヴィニョン等で教師の空きが出てもすぐに埋まってしまい、自分にはお呼び

がかからない。いつの時代もコネクションというものがあるのだろう。

結局、アジャクシオの中学で物理教師の枠が空き赴任することになるが、はたして

良いポストだったか疑問である。コストが高いと言っても危険手当のようなもので、

熱病に罹るかもしれない不便な島に行かされて、いくら素晴らしい自然があると言っ

ても本土からコルシカに赴任した教師にとってはつらく感じたかもしれない。

 

しかし、給与も少し増え自然豊かなコルシカに行き、きっとファーブル先生なら他の

教師とは違い島に満足していたのではないか?と小生は勝手に想像していたのだが、

実はそうでもなかったということはルキアン宛ての書簡を読むと分かる。

1849年1月にコルシカへの辞令が出ているので島に到着したのは1月下旬~2月初め

あたりである。そして、すぐにアヴィニョン出身の植物学者ルキアンに出会い交流が

始まる。このルキアンは当時60歳とかなり年上で、植物に詳しかったこともあって

ファーブルは彼を頼りにする。コルシカ島に赴任したファーブルは、まだ数学の道と

博物学の道との境界に立っていた状態である。植物の採集をしても、それを正しく

同定するのが難しいことも多々あったはずだ。そんな時すいすいと学名が出てくる

ルキアンを頼りにしたのは当然だったと思う。学術的なことばかりでなく、まだ島の

生活に馴染んでいなかった若いファーブルにとって、年長のルキアンは精神的な支え

にもなっていたのではないかと考えられる。

  

ファーブルは知り合ったルキアンに毎月の様に書簡を送っていて、ルキアンが島で

突然逝去する1851年5月まで20通以上の書簡が残されている。

書簡の内容は主に採集した植物についてのやりとりなのだが、途中から貝の話題が

増えてくる。それこそ昆虫学者としてファーブルはまだ目覚めていないので、昆虫の

ことはほとんど出てこない。そして興味深いのは、コルシカ着任早々に南仏での教師

の仕事への復帰を画策していたことである。島の生活、他の教員との関係など不慣れ

で、翌年10月に次女を出産する妻もまだ島には同伴しておらず、ホームシックでは

なかろうが島では寂しく孤独な状況だったのかもしれない。本土の教員の欠員が出る

と顔の利くルキアンに口利きをしてもらうよう何度も頼んでいる。

もうずいぶんと昔の話なのだが、小生の友人が東京都のある島に仕事で行くことにな

った。最初は楽しみにしていたのだが半月もしないうちに飽きてしまって、早く帰り

たいと言っていたのを思い出した。外部の者が島で生活するのは、よほど海好きとか

田舎生活を苦にしないとかでないと辛い毎日になるようだ。

 

「ファーブルからルキアンへの書簡」

1849年8月12日、カルパントラからボニファシオに宛てた3通目の書簡

 拝啓

 あなたが下さった最後のお手紙で、私がお見せした植物の名称を教えて下さった

ことに、取り急ぎお礼を申し上げます。あなたからは他にも多くのご好意をいただい

ており、これもそこに加えられるものです。私は未だに自分があなたからこのような

ご好意や思い出やお褒めの手紙を受ける価値があるのかどうか、分かりかねており

ますが、まだ価値がないとすれば、それを得るためには何でも致しましょう!

それにあなたのご好意のしるしは不毛の地の上に落ちるものではありません。

それは、熱い心の切望を容易に汲むことをしない冷たい性格の手紙というものを通し

ては到底表現できるものではありませんが、感謝の念として、また尊敬のこもった

愛着として結実いたします。

~略~

 明日、私はピエールラットに発ちますが、あそこの環境は多くの湿地のため淡水貝

の調査に好都合で何らかの発見ができるのではと期待しています。他にも化石が豊富

に出るラパリューとアプトの周辺を訪れる予定です。あそこであなたに喜んでいただ

けるような何かを発掘できたらとても嬉しい気持ちになるでしょう。

 コルシカ島において私の乏しい研究はすでに成果を挙げていまして、新賛同者が

一人出ました。私はあなたにアヴィニョンで数回お会いすることができたダヴィッド

氏と採取した貝を分け合いました。ヴォークリューズの生きた貝または化石化した

それに馴染むために、私は彼が標本を増やすことを期待しています。

前々回のお手紙で、ブウダン総視察官についてのくだりであなたは就職の斡旋をして

くださいましたが、これには大変感謝いたしておりますしこれで十分です。

ブウダン氏は確かに、私が数学教授資格の受験勉強の中で収入を得ることができる

ように、今年どこかの高校への就職を約束してくださいました。私は氏を信頼して

おりますが、あなたの推薦状の方が約束よりさらに確実であるのではと思います。

あなたが推薦状を出してくだされば私もそれを受諾し、もしあなたがそれを追加して

くだされば、あなたのご紹介のおかげで自分の計画の成功をより確信することになり

ます。コルシカ島での新学期は9月12日に決まっています。

 

ファーブル夫人があなたに尊敬と感謝の念を表しております。

深い敬意をもって、私は誠にしがないかつ大変忠実なあなたの僕(しもべ)であります。

J.-H. ファーブル

 

(p.s.) 

書簡はカルパントラからになっているので、ファーブルは本土にいたことになり、

赴任後コルシカにずっといたのではないことになる。ピエールラットは両親がカフェ

を開業していた場所である。またルキアンも帰らないつもりでコルシカへ渡ったが、

カルヴェ財団からの強い要請があって本土と行き来せざるを得なかったようだ。

この手紙の宛先はボニファシオで、ここはルキアンが翌々年に急逝した地である。

 

コロンバ (1949年) (岩波文庫)

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