ファーブルは1849年25歳の時、コルシカ島のアジャクシオに物理の教師として
赴任した。コルシカ島でのファーブルの逸話としてモカン=タンドン教授から
カタツムリの解剖の手ほどきを受け、その後のファーブルの方向性が決まった
という話は有名だ。
しかしコルシカ島でのファーブルの活動については、1853年までの4年間という
短い在任期間に終わったこともあって資料が乏しい。
ファーブルはただ学校で授業をしていただけなのか?
いやいやそんなはずがない…
美しいコルシカ島の自然に囲まれファーブル先生がじっとしているわけがないのだ。
実は若くて優秀、やる気満々のファーブル先生は
「コルシカ島の貝類学」という本の出版を夢見ていた。
ファーブルと交流のあったエスプリ・ルキアンという植物学者がいて1851年に
島で逝去するが、1848年刊行のコルシカ島の貝についての著作がある。
110頁ほどの本で軟体動物中心に学名と採取地域が書かれ分類されている。
ファーブルも本は目にしていたはずだが、分類の得意なルキアンのやり方でなく、
思い描いていた本は解剖も交え詳細なものにして出版したかったようだ。
ただこの夢はファーブルを襲ったマラリアによって断念せざるを得なくなる。
ファーブルのコルシカ島での観察ノート、Helix Corsica の記載が見える。
ファーブルに手ほどきをしたモカン=タンドンは1855年にフランスの軟体動物
というイラスト付きの大部の著作を刊行している。
序文で協力者の名を列挙し感謝しているのだがファーブルの名前が書かれている。
また本の Helix Corsica の頁にはアジャクシオ(ファーブル)という記載もあって、
ファーブルも協力を惜しまなかったのでないかと考えている。