昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ファーブルと数学

ファーブルは20歳台の頃、数学の魅力に取りつかれていたといっても言い過ぎでは

ないかもしれない。一方で博物学にも強い興味を感じていたファーブルはどちらを

選択するべきか迷っていた。将来に向けていったい自分はどちらを専攻すれば良い

のか、若いファーブルにとっては切実な問題である。

例えばコルシカ島時代のノートなどみると、ノートの一方からは貝類の研究が書かれ

ているが、ノートを裏返し逆側のページからみれば、こちらからは数式が書かれてい

るといった次第である。大学教授になるための基礎となるものとして余暇を二つに分

け、一方は数学に割きもう一方は植物採集や海の小動物の探索に割いたと、昆虫記第

6巻4章でファーブル自身がその思いを語っている。

 

このファーブルの迷いに決定的な影響を与えたのは、モキャン=タンドン教授との

コルシカでの出会いだとされている。カタツムリの解剖を目の前でファーブルに見せ

ファーブル宅に泊まったタンドンは、「数学はもうやめたらどうですか。あなたの

公式には誰も興味を示しませんよ。動植物のほうにおいでなさい。もし情熱があれば

そして私にはどうもそう思えるのですが、あなたの話を聞く人がきっといますよ」

と言ったと昆虫記には書かれている(完訳ファーブル昆虫記第6巻4章より引用)。

このエピソードを読んで、小生などはひねくれているので、そりゃそうだ、だって

タンドンは数学の先生ではないんだから、博物学を推して当然だろう、ファーブルの

数学の実力だって知らないだろうし…などと思ってしまうのだがどうだろうか。

ただ、ファーブルの記憶が正しくて、このタンドン教授の言葉がその通りだったと

すると、博物学への情熱を感じたタンドンが "あなたの話を聞く人がきっといますよ"

と言ったというのは炯眼で、のちのファーブルの人生を見ればタンドンの言う通りに

なっているのだから、先見の明があったと言わざるを得ない。

 

こういう出会いを縁というのかもしれないが、まったくファーブルの心の中に博物学

に惹かれる心がなければ、誰に何を言われても響くことはないはずなので、やはり受

け入れる素地が既にファーブルの中にあったからこそ、博物学への道へ背中をひと押

しされたのだと思う。たまたまなように見えるがそのような出会いを生む行動は既に

ファーブルはしていたのである。

具体的には植物学者ルキアンとの出会いからその友人のタンドンへとつながっている

わけで、例えばちょうどコルシカにルキアンが来ていたことなどは相当に偶然なのだ

が、しかし島に来ていてもやはりファーブルが博物学に興味を持っていなければ

ルキアンとも親しくなっていないはずなのである。ルキアンを知らなければタンドン

とも会うこともなかった。数学の道にもし進んでいれば昆虫記にわれわれが出会う

機会はなかったことを思うと、有り難い出会い、縁だったと言える。

 

よほどファーブルは数学への思い入れがあったのか、昆虫記第9巻では数学に関する

思い出を二章も使って書いている (13章 数学の思い出、14章 小さな机の思い出)。

第9巻は初版が1905年の刊行でファーブルが81歳の時である。よくぞ60年くらいも

前のことをはっきりと憶えていたものだと感心させられる。

当時ファーブルは20歳台で、しがない教師時代のことなのだが、様々してきた苦労は

80歳を超えても、おそらく昨日の事のように記憶の引き出しに入っていたのだろう。

昆虫記6巻13章では、独学についての長所も書かれており興味深いが、初等的な数学

しか教えてもらっていなかったファーブルが、噂を聞いたかで来た受験生に数学を教

えることになるエピソードが語られる。

他人に教えるのが一番の勉強になるというわけで、他の教師の数学書を勝手に拝借し

講義までの日数も少ない中、テキストを独学で理解しながら教えていく。

まあこれだけでもファーブルの頭の良さがわかるエピソードである。 後に生まれる

息子エミールは数学の教師になっているが、ファーブルが数学の道へ邁進していたら

どうなっていたのだろうかと小生は考えてしまう。

 

もう一つエピソードが紹介されており、やはり20台でカルパントラの中学附属小学校

の同僚と一緒に数学の勉強をしたという内容である。

当初はその同僚に教えを乞う立場だったが、途中からは逆転しファーブルが彼に教え

るようになっていたという。二人ともモンペリエで数学のバカロレア試験に合格する

が、ファーブルはさらに上の資格を目指し取得している。同僚はあくまでも仕事の

ために取ろうとした資格だったが、ファーブルは数学という学問を追究することに

興味を持ち、勉強すること自体も楽しんだと述べている。

 

それだけ興味を持ち好んだ数学の道だったが、ファーブルは博物学により強い興味を

抱き、結局その道を選ぶことになる。

以下はコルシカ島でタンドン教授のカタツムリ解剖レクチャーを受けたあと、

しばらくして弟フレデリックに宛てた手紙の内容で、引用し一部を紹介しておく。

 「…幾何学者になることもできた。しかし、博物学者に生まれ変わることがわたしに

とってはなによりも必要だった。わたしにとって最も愛すべき科学は、自然であり、

自然の創り出したものの生態を学びとることであった、ということを君はだれよりも

よく理解して欲しい。」(人類の教師 ファーブル 1974年 明治図書出版より)

 

さて、ではファーブルの実際の数学の実力はどうだったのか。

以前、惨敗記という題のブログに書いたが、昨年小生はあるオークションに参加し

大負けを喫した。かろうじて落手できたのが、ファーブルを慕う友人がファーブル宛

てに献呈したアルマナという冊子とファーブルの数学ノートである。

大部なノートで数式がずらずらと並び、みな調べるには小生ではとんでもない時間が

かかりそうなので、雰囲気が分かるようにとりあえず画像のみいくつか掲載しておき

たいと思う。今でいう数Ⅲの内容もあるようだが、少なくとも大学以上のレベルに

思われる。これを独学で理解したのかと思うとため息が出るばかりだ。

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 各100頁ほどのノートが5冊あり500頁近くにわたる。

主に1840年代、まさにカルパントラで数学に没頭していた頃で、コルシカ島赴任時代

よりは前だと思われる。ノートはサイクロイド偏微分を思わせる式も出てくるが、

小生にはお手上げで、詳しい方に一度見てもらおうと考えている。

黒い細い紐できれいに綴じられているが年数の経過で弛んでいる。もし当時のまま

ならファーブルが綴じたということになる。

ノートについて、やはり昆虫記第9巻14章より参考までに以下に一部引用しておく。

「…紙を綴じて表紙をつけたノートの方が私は好きだ。…何でも書きつけられるこの

腹心の友を相手に、私は毎晩夜遅くまでランプシェードの下でじっくり考え、手の

焼ける難問を軟らかくし、金槌で鍛えるという、思索の鍛冶屋の仕事を続けることが

できたのである。」 注:ランプシェードは電球を覆う笠状のもの。

 

ファーブルの数学への思いが、集英社版完訳ファーブル昆虫記 第6巻上 4章 私の学校

にあるので、以下に一部引用しておく。

「若いころ、いちばん多くの時間を費やした数学はほとんど私の役に立っていない。

ところが、できるだけ禁じた虫の方は、年取った私を慰めてくれる。それでも私は、

サイン、コサインを恨んだりはしていない。いまも変わらず敬意を払っている。

それは昔、顔色が蒼くなるほど勉強させられたけど、なかなか眠れない夜、寝床で

数学の問題を考えることは、いい気晴らしになったし、いまもそうなっている。」

 

また、コルシカ時代にファーブルは "数" という非常に長い詩を書いている。

この世界は数によって律せられているというわけで、昆虫記第9巻14章の訳注に奥本

先生が一部だが訳出されているのでぜひ読んでいただきたい。