昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

父アントワーヌからの手紙

ファーブルの父親の肖像が残っているが、骨太で頑丈そうな顔つきである。

身体も丈夫でアルファベットのIの文字のように背筋がしゃんとしていたそうだ。

1800年にマラヴァルで生まれ1893年1月にセリニャンで逝去している。

およそ92歳の人生だったのでファーブルとほぼ同じ寿命である。

ファーブルの強い身体はこの父親譲りなのだと思われる。

 

父アントワーヌはいかにも肉体労働に適している体を持っていたと思うのだが、

なぜかカフェなど開いてみては失敗し転々とするという理解しにくい行動を取る。

家族はさぞかし迷惑だったはずだが、田舎でずっと厳しい農作業に従事するよりは

町なかで人々と交流があった方が刺激があったのかもしれない。

もちろん一発当てて貧乏生活から抜け出したいという野心もあっただろう。

 

アントワーヌの父親、ファーブルの祖父はピエール・ジャン・ファーブルという人で

「ファーブル巡礼」津田正夫著によれば、長髪を肩まで垂らし木靴を履いて厳しい

顔つきをしていたそうだ。一日外で貧しい土地を耕し、牛や羊の世話をしていた。

口減らしのためファーブルも数年この祖父宅に世話になっている。

父アントワーヌも田舎生活の辛さをよく知っていたからか、しゃれたカフェで儲けて

少しでも楽な人生を送りたかったとしても不思議はない。

しかし、祖父宅は牛や羊を飼っていてチーズも食していたというのだから、どん底

貧乏とはとても言えないのではないだろうか。

 

ファーブルは真面目で粘り強い性格ではあるが、短気な一面も持っている。

いったん怒り出すと誰にも止められない、もちろん後に引きずるような怒り方では

なかったようだが。

そしてファーブルが意図したわけではないが、結果的にはうまく行かないことが

起きて転居するという生活のリセットを繰り返している。

父親の人生に重ねることは妥当ではないが、転居を繰り返すという行動自体はよく

似ていたように思える。

 

アントワーヌからファーブルに宛てた手紙が自然史博物館に一通のみ残されている。

父親とはセリニャンでも一緒に住んでいたので、よく保管していたと思う。

ファーブルがマラリアで療養していた時の手紙なので思い入れもあったのだろう。

 

  愛しいアンリ             1852年3月10日 ピエールラット

 

わたしはお前の昨日の手紙を受け取ったばかりだが、それを読んでお前の健康がぐん

ぐんと回復していることを知って、お母さんと同じく大きな喜びを感じているよ。

もう少しで完全に治ることが期待できるね。

そして幾日もしないうちに、わたしたちはお前たち三人をピエールラットに迎えて

再会の幸福に浸れるだろう。

 

あの小さなお手伝いについてだが、お前たちが不在の間はカルパントラに残しておく

方がいいと思う。彼女はピエールラットでは必要ないからね。

わたしの方には18ヶ月前からお手伝いが一人いる。彼女はとても優秀な仕事をする

から、お前たちの小さな娘の世話もお前たちのお手伝い同様にうまくこなすだろう。

それに仕事は特にこれからの季節はゆっくりとやっていいからね。

 

残念なことに、こちらでは2ヶ月前から隣に仕事のライバルが現れて、仕事の量では

わたしたちの負担を軽減してくれるのだが、財政的にはそうではなくなったよ。

 

お前たちをわが家にもうすぐ迎えられるのを待ちながら。

心から抱擁する。

                     アントワーヌ・ファーブル

 

注)ピエールラット: 南仏ドローム県のコミューン、アヴィニョンから北へ40km

  お手伝い:原文は domestique となっており、召使いや使用人の意味。

 

この手紙はファーブルからレヌッチ宛の手紙の1ヶ月後位に受け取ったものだ。

(ブログ:コルシカ島のファーブルーレヌッチへの手紙 参照)

弟宅で療養していた頃だがすでに食欲も回復しコルシカへ早く戻って研究を再開

したいという強い希望を持っていた。

ピエールラットでカフェを開いていた父親のもとでさらに療養を続けたようで、

その直前に父からもらったものである。

 

愛情に溢れる父親からの手紙だが、見ると意外に達筆なことに驚かされる。

やや大きめの文字が流れる様な筆跡で一気に書かれていて訂正も無い。

サインもしっかり書かれている。

文盲も多かった時代に彼はどこで習ったのだろうか?

若い時の肩書は郵便局員だとか執達吏(しったつ-り:裁判所の文書送付、代言、

手数料徴収など)といったものだそうだが津田先生によるとはっきりしないという。

いずれにしても文章を書く必要性には迫られたのではないだろうか。

手紙の画像を掲載できないのが残念だが、文字を眺めているとファーブル先生はこの

父親から良し悪しは別に、いろいろと受け継いだのではないかという気がしてくる。

 

手紙ではカフェの経営がうまくいってないことを明かしている。

さすがに病み上がりの息子に来るなとは言えなかったと思うが、お手伝いさんは

来させないよう伝えている。

 

小生はこの手紙で触れられている "お手伝いさん" について不思議に思っている。

よくファーブルは貧乏であったとかしばしば言われることなのだが、はたして本当に

そうなのだろうかと。

教職をすでに辞めている奥さんもいるわけで、確かに病気療養中の夫や小さな子供

たちの世話はたいへんだとは思うのだが、まだ若いしそれでお手伝いさんを雇うと

いうのは、やはり中流以上の家庭環境なのではないだろうか。

それとも当時のフランスでは家事手伝い含め、全般の手伝いをしてくれる人を雇う

のが当たり前だったのだろうか。

知り合いのフランス人に聞いてみたが、はっきりした答えは返ってこなかった。

いずれにしても、赤貧洗うが如し(貧しく洗い流したように何もないさま)と言う

ような状況ではなかったようである。

 

ファーブルの二番目の奥さんも元々はファーブル家に手伝いに来ていた人である。

そして二度目の結婚後、あの昆虫記第7巻に出てくる "オオクジャクヤママユの夜"

の場面ではやはり女中さんが登場しているのだから、いったいどうなっているの

だろうか。働き者だった夫人がいるのなら新しく雇う必要などあるのだろうか。

こうなると貧乏どころか、むしろファーブル家は裕福だったのではないかとさえ

思えてくる。

人を雇って手伝ってもらうというのが昔からあったフランスの伝統であるのか、

それとも夫人=家事負担という縛りから、女性を解放するように既になっていた

と捉えるべきなのか…。

 

(完訳ファーブル昆虫記第7巻下 集英社 より一部引用)

寝室から下に降りて、母屋の右側にある研究室のほうに行った。台所では女中も

この出来事にびっくりしていた。彼女は前掛けではたいて大きなガを追い回して

いたが、初めはこれをコウモリだと思い込んでいたのだ。

 

この部分の原文は、bonne (女中、お手伝いさん) が使われている。

父アントワーヌの手紙では、domestique でこちらは召使、使用人の意味。

これらの言葉の使い分けが小生にはわからないが、ガが部屋に入ってきて息子の

ポールが大騒ぎしたのは夜の9時と書いているので、当時住み込みのお手伝いさんが

ファーブル家には居たということになる。

 

この "オオクジャクヤママユの夜" は、昆虫記訳注に1893年5月頃の出来事とある。

この時アルマスに居たのは、ファーブル夫妻、40歳のアグラエ、5歳のポール、

3歳のポリーヌ、そしてアンナは12月に生まれるので夫人は妊娠中のはずだ。

ファーブルの父はこの年の1月に大往生、母は没年不明だが既に亡くなっている。

まあこの状況では誰か手伝ってもらわないと厳しかったのかもしれないが、

日本で考えてみれば子供二人抱えた身重の夫人が、皆お手伝いさんをお願いして

いるわけではない。

ファーブル先生裕福説?…といったところだろうか。

家庭内のことについてもまた知らないことばかりなので、判明したことがあれば

今後も掲載していきたいと考えている。

 

 

完訳 ファーブル昆虫記  第7巻 下

完訳 ファーブル昆虫記 第7巻 下

 

 

ファーブル巡礼 (新潮選書)

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