昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

娘クレールへの手紙

前回書いたような碌でもない夫と家出、駆け落ちしてしまったクレールだが

ファーブル先生は娘に強い愛情を持っていた。

だからこそ結婚に強く反対もしたのだと考えられる。

父から見ればもっと甲斐性のある男、立派な人物と一緒になって欲しかっただろう。

夫をアルマス出禁にしてしまうほど嫌っていたが、クレールは父ファーブルに

似たのか頑固で折れなかった。

愛する娘の気持ちが変わることがないうえに、結婚数か月後には孫も身ごもった

となれば厳しい父親も許さざるを得ない。

「クレール、ほんとうに彼で良いのか?」

「ほんとうにお前は幸せなのか?」とファーブルは心の中で娘に何度も問いかけた

ことだろう。

 

この娘クレールはよくファーブルの研究を手伝っていた。

ドランジュ博士によると、亡くなった弟ジュールの次によく研究に参加したという。

クレールが22歳の時にかわいい弟ジュールは16歳で旅立っている。

優秀だった弟に対する想いは父ファーブルだけのものではなく、姉のクレールにも

もちろんあったはずだ。

 

昆虫記第4巻10章 ”ドロバチの狩り” ではクレールが登場し、オランジュの鶏小屋での

発見をファーブルに報告し標本を送っている。

これが1889年6月頃とあるので、ちょうど娘ジャンヌが1歳になり父ファーブルとも

和解していた頃だ。結婚2年目になりクレールにとっては最も幸せな時期だったかも

しれない。

クレールは虫の家に育った娘である、何が父の研究に役立つかはすぐに見分けること

が出来た。そのようにファーブル自身が昆虫記第4巻同章で述べている。

平穏な元の親子関係にやっと戻れ、大切な父との絆を二度と失うことのないように

という想いで父の研究を手伝っていたように感じられる。

 

しかし、このクレールの幸せは長く続かなかった。

娘ジャンヌもそして1891年3月に生まれた息子ジャンも早逝してしまう。

更に息子ジャンを生んで2ヶ月後にはクレール自身も亡くなってしまう。

病因は不明だが時期的には明らかに産後の肥立ちが悪かったことがうかがえる。

母親と乳児二人が相次いで亡くなっていることから類推すれば、ジュール同様やはり

結核に罹患していたのではないかと考えられる。

 

以前も触れたが、ファーブルの名を冠したと思われるこのクレールの娘が危篤に

なった際にファーブルは手紙をクレールに送っている。

以下に「ファーブル伝」平凡社から一部のみ引用しておく。

 

親愛なるクレールへ

小さな病人がよくなったのではないかと期待して、天気が良い日がくるたびに、

おまえたちが来るのを待っていた…中略

ああ、私はおまえを知っているもの、どんなにかたいへんな苦痛を味わっている

ことか…

どんなことが起きようとも、愛しい娘よ、勇気をお出し…

苦痛はわれわれを高尚にするものであって、打ちのめすものではない…

 

ファーブルにしては長い手紙で、それだけ落胆している娘を心配しているのだろう。

すばらしい文面なのでぜひ全文を読んでいただきたい。

娘を励ましているのだが、ファーブル自身が影響を受けたと思われるストア的な

考えが根底にあるようだ。そして娘が悲しみを強く乗り越えるように導いているが、

決してそれだけでもなく、愛する娘の気持ちに寄り添う優しさもみせている。

これは1889年時点でファーブル自身が妻と息子ジュールを含め3人の子を喪ってきた

経験があったからこそであろう。

 

そしてクレールが逝去した1891年にクレールの夫は義父ファーブルへ訴えを起こす。

前回ブログで述べたことが小生の想像通りなら、クレールも救われない。

彼にはこのファーブルとクレール父娘の強い絆や愛情など理解できていなかった

に違いない。

 

完訳 ファーブル昆虫記 第4巻 下

完訳 ファーブル昆虫記 第4巻 下

 

 

ファーブル伝

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ローマの哲人 セネカの言葉

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