昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ファーブルの家系図ー最初の結婚

ファーブルの家系図をよく眺めている。

こんなものを見ている人などいったいどれだけいるのかなぁ…と時々思う。

参考にするのは1989年版のフランス発行2冊組の昆虫記第1巻にあるもので、

ファーブル研究で高名なイブ・ドランジュ博士序文の後に掲載されているものが

とても詳しい。

生まれた場所、生年月日、配偶者名、没年など詳細に記載されており、情報は小生

のようにファーブルの人生に興味のある者にとっては参考になる。

家系図は人生の鏡でもあり、その人の人生をよく表現しているものだからだ。

他に入手できるものでは「ファーブル巡礼」の付録として掲載されているもので、

こちらはかなり前の祖先の名前が載っていて、さすが津田先生といえる。

わざわざ出生地の役場に手紙を出して確認しているが、記録が古いうえに諸説あって

難儀したようだ。

 

フランスの人名について小生は何の知識もないので、誤解があるかもしれない。

書籍によって名前の呼び方も異なっている、ファーブルも以前はファブルと読んで

いたくらいで、それほど名前の日本語変換は難しい。

ファーブル家の家系図についてはあまり言及したものも無いので、図を眺めながら

理解した範囲で書いておきたいと思う。目を通せていない書籍も多いので、新しい

知見があればまたその都度掲載したい。

 

家系図を見るとファーブルの名はジャン=アンリ・カジミール・ファーブルである。

カジミールはよく省略されるが、以前からこの真ん中の名はどこから来ているのか

よくわからずモヤモヤしていた。

「ファーブル巡礼」を見ると、母方の祖父がカジミール・サルグという名なので、

カジミールはこれが由来のようだ。

ジャンについては父方の祖父がピエール=ジャン・ファーブルというので、

まあファーブルの両親はそれぞれの親父さんから名を頂戴して家長の顔を立てた

ということらしい。田舎で家長が強い地域、そういう時代だったのだろう。

 

アンリについては祖先に見当たらなかったので両親がつけたのかもしれない。

根拠はないのだが、父アントワーヌのファーブル宛の手紙が1通だけ博物館に残って

おり、これには英語風の呼び名で Mon cher Henry 親愛なるヘンリー(アンリ)へ、

と書かれている。

フランス人が英語風に書くのはよくあることなのか小生は知らない。

父親の英国趣味でもあったのか不明だが、弟のフレデリックがファーブルに宛てた

手紙では Mon cher Henri となっているので、アンリは父の愛着がこもった名の

ように感じられる。

(ただし古いフランス語で Henri は Henry と表記したそうで、現代でも名前に受け

継いでいる方は多いため特別な意味はないのかもしれない。)

 

ファーブルは最初の結婚で7人の子供に恵まれている。

最初の妻マリ=セザリーヌ・ヴィラール(ヴィヤールの表記もある)

はカルパントラ生まれ、教員で1844年23歳の時にファーブルと結婚し、

その後19年位の間ほぼ2~3年おきに子を産んでいる。

24歳から42歳まで出産と子育てに追われているが、当時としては乳児の死亡率も

高いだろうから、7人というのは決して特別でないのかもしれない。

唯一期間が違うのが第5子のクレールから6子のジュールの間で6年ほど空いている。

1855年から1861年の期間である。

マラリアから回復しコルシカからは引き揚げアヴィニョンに住んでいる頃である。

安月給で窮乏している中、学位論文を1855年に発表しており相当忙しくしていた

はずで、アントニア、アグラエ、クレールも健在で乳幼児 3人を抱えての生活は

かなり厳しかったと思われる。

それでもそれなりに安定してきたためか、1861年ジュール誕生、2年後の1863年

にはエミールが生まれている。この時点で5人の子持ちである、アカネの色素抽出

に関する特許を取って工業化を実現し、生活を楽にしてさらに大学教授も狙える

ような計画を立てたのは当然かもしれない。

 

第1子(女) のエリザベート・マリ・ヴィルジニィは9か月で旅立った。母からマリ

という聖母を想起させる素敵な名をもらい、ヴィルジニィは純心無垢という意味か。

エリザベートは王女のようだが、父方祖母がエリザベートというので頂いたようだ。

 

第2子(男) はジャン・アントワーヌ・エミールは祖父からアントワーヌ、父から

ジャンをもらっている、丈夫な父と祖父の体質を受け継ぐように、そして最初の男子

ということもあって名を継いだのだろうが、やはり1年7ヶ月で早逝。

(1年未満という説もある)

続けざまに子供に先立たれファーブル夫婦にとってはたいへん辛い出来事となった。

 

第3子(女) アントニア・アンドレアの家系は最も子孫を残している。

(アントニンかアントニーヌと思ったがみなアントニアとなっているので従った)

1850年に生まれ48歳の若さで逝去しているが、1873、1874年に男女1人ずつ

出産している。この子らは70~80歳代まで無事で1970年代まで子孫の系図が記載

されており、ファーブルの最初の結婚での家系の中では最も後継を残したようだ。

夫はアンリ=ジュール・ルーという人で7つ年上、小学校の教師をしていた。

第1子は結婚の1年前に生まれている、強引に一緒になろうとしたということ

だろうか? フランスは事実婚が多いというが当時はどうだったのだろう。

厳しい父ファーブルの怒りが爆発したかもしれないが、最も子孫を残す結果と

なっている。

2人目を生んだ後に子供はいない。まだ20代なのだが体調を崩したのだろうか?

普仏戦争後でそれどころではなかったのか?それとも父ファーブルの機嫌を損ね

経済的に厳しかったのか…。

 

第4子(女) アグラエ・エミリーはファーブルがマラリアから回復してすぐ生まれた。

アグラエという名が小生は聞きなれないのだが、それほどレアでもないようだ。

ギリシャ語の語源的には美しいという意味があり、アグラエの名のついた蝶がいる。

邦名:ギンボシヒョウモンでファーブルが命名に関連しているかは不明。

アグラエは終生、父に寄り添い研究も手伝った。

出戻ったことをうかがわせる記載がルグロ博士の伝記にあるがはっきりしない。

妹クレールが結婚の際に父親の猛反対を受けており、駆け落ち同然に家を出たこと

が影響した可能性はあると思う。

尊敬する父と喧嘩することなど優しく献身的なアグラエには不可能だったはずだ。

晩年はアルマスの管理人をしていたようで、大橋先生が訪問された際に会っている。

(ブログ:アルマスを訪ねた日本人 参照)1931年セリニャンにて77歳で逝去。

 

第5子(女) クレール・ユーフラジーは父ファーブルをよく手伝っていた。

ユーフラジー古代ギリシャ語で陽気という語源らしい。

ファーブルも非常に可愛がったが、そのクレールは家出同然の形で結婚している。

原因はファーブルの猛烈な反対のためで、娘への愛情がそれほど強かったのかも

しれないが、融通が利かないと言ってしまえばその通りである。

30歳を超えていたとはいえファーブル先生にとってはかわいい娘だった。

生き残った3人の娘のうち既にアントニアは結婚してしまい、クレールもいなく

なればアグラエ1人になってしまう。

相手はマリ=アントワーヌ・ソーテルという人で、43歳にもなっておりクレール

より11歳も年上、おまけに何をしている人かよくわからない。

そんな男にかわいい娘はやれないということだろう。

彼はファーブル家に立ち入ることも許されなかったそうだ。

しかし、お互い夢中になってしまったクレールは父の猛反対を押し切り家を出た。

娘の頑固さは父譲りなのだろうか、最終的にはさすがのファーブル先生も諦めた。

男女1人ずつ子を出産したが、第1子は1年4か月で第2子は9か月で早逝。

クレールの悲しみはどれほど深かったことか。

そして彼女自身も第2子を生んで2ヶ月足らずで亡くなっている。

結核だったと思われるが、妊娠出産の負担が影響したのかもしれない。

わずか結婚4年後、36歳という短い生涯だった。

 

第6子(男) はジュール・アンドレ・アンリ、6年ぶりの子であり次男になるが、

物心ついて会話のできる年齢に達した初めての男の子だった。

いかにファーブル家の後継ぎとして、そして自身の後継者としてファーブルが期待を

寄せたかは容易に想像がつく。

そしてその期待に応えるだけの才能を受け継いでいたのだから、ファーブルは喜んだ

はずだが16歳で旅立ってしまう。喜びと期待が大きいほど落胆は計り知れない。

ジュールという名は祖先の中に見当たらず由来が不明だが、一般的にはジュールの

語源はユリウスである。

そして古代ローマ氏族ユリウスの系列で有名なのがカエサル家で、古典に詳しい

ファーブルが有名なガイウス・ユリウス・カエサルの名を選択したのはうなずける。

強く育つことを願って名付けたのだろう。

 

第7子(男) はフランソワ=エミール、ジュール誕生の2年後にアヴィニョンで出生。

チフス結核など感染症であっという間に人が死んで行く時代である。

跡取りとして男の子が続いたのでファーブルも少し安心したかもしれない。

エミールは両親の教師としての才能を受け継いだようで数学の先生となった。

父同様に同じ教師と結婚し男の子を1人授かっている。

1人だったがこの子は76歳まで生き、子孫の系図は1980年代まで記載されている。

 

そして、このエミールのひ孫の名前が素晴らしいので小生は感銘を受けた。

長男の名がジャン=アンリ・ファーブルで次男がフレデリック・ファーブルという、

何とファーブル先生兄弟と同じ名前なのだ。

祖先へのリスペクトが明らかで、おそらく親から業績を聞かされていたのだろう。

ファーブルが逝去して37年も経っているのに同じ名を付けるとは…

そしてそのひ孫たちの父親の名もまた素晴らしい。

ジャン・ファーブルというのである。

小生はエミール家の系図にこれらの名を見つけた時、嬉しくなってしまった。

 

結局、ファーブルの孫を残したのはアントニア、クレール、エミールの3人になる。

クレールの子は早逝しているので、最初の結婚で孫以降の子孫が残ったのは

アントニア家とエミール家のみとなる。

これはいかに生き残るのが厳しい時代だったかということで、感染症にどれだけ

耐えられるかということが寿命を左右したということだ。

例えばパスツールチフス等で3人の娘を亡くしており、ファーブル家は主に結核

が原因だったようである。

1877年に愛息ジュールを亡くし、その影響でファーブルも翌年肺炎を患っているが、

それが一般の肺炎だったのか、結核もしくはその再発だったのかは不明である。

まだ50歳代だったファーブルが回復後、杖で歩いたということなので相当な消耗

だったことがうかがえる。

 

その後、ふだん散歩する並木道のプラタナスを新しい家主が切ってしまったことに

怒ったファーブルは、家を出ていくことを決意したと伝えられている。

オランジュを出る際に、この家主は肺疾患の家族といった目でファーブル家を見て

いたようで家を取り壊すことさえしている(ファーブル巡礼参照)。

このような事はファーブルの辛い思い出にさらに追い打ちをかけたことだろう。

そして、ファーブルは安住の地を求めてセリニャン村へ隠棲することとなる。

 

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比較的珍しい帽子を被っていないファーブル、1912年。

机の下に愛用の杖が見えているが、細いのだがとても丈夫そうに見える。

何の木で作ったのか小生は気になっており、現存しているのなら間近で見てみたい。

 

 

ファーブル巡礼 (新潮選書)

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ガリア戦記 (講談社学術文庫)

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