昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

レモン売りの少年ファーブル

ファーブルの両親はなぜか故郷を離れカフェをあちこちで開業するのだが、なかなか

うまくいかず、店を開いては閉め、閉めては開くということを繰り返す。

いったいどこにそんな資金があったというのだろうか?不思議である。

父アントワーヌの肖像は残っているが、カフェ店主に向いているとはお世辞にも言え

ないような骨太の人である。美味しい料理を出し、客の応対も上手だったとはとても

見えない。ロデーズを離れ、オーリヤック、トゥールーズモンペリエと転々と移動

しながらカフェを始めるがうまくいかない。モンペリエまで来たがさすがに資金が

尽きたのか、まだ14歳だったのだがアンリ少年は家を出て自分の食い扶持を探すこと

になる。10代で家を出て働くというのは、ずいぶん可哀そうなように思えるが当時は

決して珍しくなかったようだ。小生はこの時の苦労が困難に立ち向かうという生涯を

通じてのファーブルの姿勢を形成したのではないかと思っている。

それにしても故郷サン・レオンからロデーズは西に直線30㎞程度だが、ロデーズから

オーリヤックは北に60㎞、そこからトゥールーズは南西に150㎞、トゥールーズから

は東に150㎞でやっとモンペリエにたどり着く。ファーブル一家は店も開いていたの

だから荷物は多かっただろうし資金もないし、いったいどうやってこの距離を移動

したのだろうか?馬車か何か使ったのだろうか?途中の道は山も多く幅は広くない、

当時は舗装もされていないだろうし、何より淋しく暗くなってしまえば灯りもなく

物騒なはずだが怖くなかったのだろうか。

 

ファーブルは親兄弟から離れ一人で飢えをしのがなければならなかったこの困窮時代

のことを書き残していないが、ルグロ博士のファーブル伝によると、アンリ少年は

ボーケール (Beaucaire) という町でレモン売りをしていたのだそうだ。この町は小生

にはまったく馴染みのない聞きなれない地名だが、地図でみると後にファーブルが

住むことになるアヴィニョンの南西約15㎞ほどの所にあり、町の東側にはローヌ川

走っていて荷物等の輸送運搬に利用されていた地域と考えられる。

それにしても両親のいるモンペリエから東に直線で40㎞以上離れているのだが、一人

でここまで移動したのだろうか?生きていくのはなんと厳しいことだろう。そして、

働いていた場所はドゥランジュ博士の「ファーブル伝」に記載があり、ボーケールの

プレ(Pré) という場所の露店でレモンを売っていたのだそうだ。地図で見るとその地名

は残っているが立派な歴史的建造物が並んでいて当時の場所かどうかは分からない。

それにしても、アンリ少年はいったいどこで寝泊まりしていたのだろうか。14歳で

一人きりの路上生活ならとても淋しかったはずだ。

 

ボーケールで目立つのは町の北側にある城塞で、これは11世紀に建てられているので

アンリ少年もきっと同じ風景を見ていたはずである。

この町のことはスタンダール著の「ある旅行者の手記」に出てくる。1837年の記事に

なっているので、まさにアンリ少年がレモン売りをしていた頃と同時期である。

ここはふだんは静かな町だが、年に一度7月22日~28日頃に開かれる定期市が有名で、

フランス各地、外国からも商人らが集まってくる。町はあまり広くないので河岸部分

にも板張りやテントの小屋が作られるという。石鹸、食料、薬品、酒、干しブドウ、

アーモンド、ニンニク、ロザリオ等々の雑多なものが売られ賑やかだったようだ。

手記にはレモネード屋の話も出てくるが、この賑やかな定期市にレモン売りのアンリ

少年がいて、レモンを売っていたとしても何も不思議はない。人手の必要な定期市に

アルバイトとして働いていたというのは現実味がある。

 

上記定期市の様子は、スタンダール「ある旅行者の手記 2」1985年 新評論から一部を

引用したが、興味のある方はぜひアンリ少年もそこにいたはずだと思って読んでみて

下さい。スタンダールの手記と言っても実はミラン著「南仏諸県旅行記」からかなり

内容を借用しているとのことなのだが雰囲気はさすが十分に伝わります。

(残念ながらミランの書の邦訳はまだされていないようだ)

しかし、アンリ少年が手伝ったレモン売りというのは、日本では見かけないのでもう

ひとつピンと来ない。買った人はすぐかじって食べるのか、レモネードにするのか、

料理に使うのか?先日、小生は試しにフランスのレモネードとレモンジャムというの

を取り寄せて食したがこれがなかなか美味しかった。日本のものよりも甘味は過ぎず

酸味もきつくない、これなら気軽に飲めるしジャムの方はパンにたっぷりとつけて

しまう。気候なのか土壌の違いなのか?レモン自体も日本のものより酸っぱくないと

聞く。美味しそうなレモンを籠か布かで抱えてアンリ少年は売ったのだろうか?

”おいしいレモンがあるよ~” などと一日中大きな声を出していたのかもしれない。

 

もちろん小生はスタンダールなどほとんど知らないのだから、ボーケールで働いた

アンリ少年のレモン売りバイトとスタンダールの著作をリンクできるはずがない。

実は「人類の教師ファーブル」明治図書出版 1974年 という書籍の中で、この町で

働くアンリ少年をボーケールを訪れたスタンダールが見かけるという仮定の文があり

参考にしたという次第である。

ちなみにこの邦書は、当時のヨーロッパのファーブル研究者らの意見を参考にして

いて、そして昔ファーブル研究が盛んだった旧ソ連で刊行されたものを杉山利子さん

がロシア語から邦訳されたものである。小生も知らなかった内容の知見も随所にみら

れる好著であるのだが、現在は古書でも入手し難い絶版状態が続いている。

それならと、小生はこの本の元のロシア語原書を探そうと海外のロシア語書店まで

連絡してみたがうまくいかなかった。なかなか共産圏の古書事情というのは日本とは

大きく異なり、古い書籍はあまり残っていないようだった。やはり日本の古書文化は

どんな時代になっても残るべきで誇り得るものだと思う。

古書に限らないが、過去の積み重ねがあっての現在なので、昔のものは要らないと

いうのはどうかと小生は思う。

 

レモン売り以外にも、アンリ少年はニームとボーケール間の鉄道建設の手伝いもして

いたという。レールを敷く作業なのか、下に敷く石でも運んでいたのか、それとも

草木を刈って切り開く作業だったのか?いずれにしても、少年にとってはさぞかし

体力を必要とした重労働だったことだろう。アンリ少年は仕事を求め町をさまよって

いたそうなので小生などは頭が下がるばかりだが、もしかするとファーブルの丈夫さ

というものは、遺伝以外にもこういった経験によって培われたのかもしれない。

地図で降りてみるとボーケール駅は非常に小さい(東隣のタラスコン駅も小さいが

こちらは作家ドーデの作品に登場する英雄タルタランの故郷で有名である)。

もう少し離れて北東にアヴィニョン、西にニームがあるが、これらの駅は立派なので

急行が停まらないボーケール駅の貧弱さが余計に目立つ。これでは益々町がさびれて

しまいそうだ、まだ河川の輸送が盛んだった頃の方が良かったかもしれない。

ファーブルが日銭を稼いだこの町が田舎のままというのが、手伝った鉄道の敷設が

一因なら皮肉なことである。しかし、ここはファーブルが苦しい少年時代に関わった

場所なので、ボーケールの町も駅もぜひ一度見てみたいと思っている。

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19世紀前半リトグラフ、左上にボーケール城、正面建物はアヴィニョンの仕出し屋?

右に噴水が設置され何かの市のようだが、7月開催の定期市かは不明。

ターバンを巻いた中東?の外国人が左に、右には南仏の帽子や衣装を着た女性がいて

何か計量をしており、市は賑わっているようだ。

ファーブルがレモン売りをしていた場所(プレ)ではないが、このような市にも出向き

レモンを売っていたのではないかと思われる。

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19世紀写真、カフェレストラン。

ファーブルの両親がカフェを開いていた時期と同時代。

カフェなら外にテーブルがあってくつろげるような店を想像しがちだが、写真の店は

簡素な構えである。ゆとりはなかったから、父アントワーヌが開いたのはこのような

質素な場所を間借りした店だったのではないだろうか。

ロデーズで開いた店は、"カフェ・リュキュリュス (Lucullus)" という名だったようだ。

ルクルスは古代ローマの軍人 (前118~前56) で美食家として知られていたので、

店の名として選んだのではないかと思われる。

ファーブルはやはりローマ帝国セネカの格言を自身の墓石に彫っていたが、

このような知識はファーブル家が特別というよりも、当時は当たり前の教養だったの

かもしれない。

 

Beaucaire

Beaucaire

  • 作者:Lardie, Jacques
  • 発売日: 1999/05/01
  • メディア: ペーパーバック
 

  

ある旅行者の手記 2

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