昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ファーブルの家系図ー二度目の結婚

最初の結婚で伴侶となった教員のマリ=セザリーヌは、64歳の1885年にセリニャン

で亡くなった。仕立て屋の娘として生まれ、23歳の1844年にファーブルと結婚して

から40年以上にわたり苦楽を共にしてきたパートナーだった。

死因については不明で、ファーブル研究者のイヴ・ドランジュ博士は結核か癌では

ないかと書いているが明確な根拠はもちろんない。

 

残されたファーブルは困ったかもしれない。

次女のアントニアは既に結婚して家を出ているが、三女のアグラエ(生涯独身)と

四女クレールは結婚前でいた(三男エミールはバカロレアの準備で不在)。

高齢のファーブルの父親アントワーヌ(1893年92歳で逝去)も連れ合いを亡くし、

世話になったロベルティ農場(ブログ:ロベルティ農場 参照)の仕事も退いて

セリニャンにいたはずだ。

 

娘たちが家事をすれば済むのではないかと思うのだが難しかったようだ。

ファーブルも多少は余裕があったからなのか、それとも研究に専念したかったためか

セリニャンでお手伝いさんを雇うのである(前妻存命中からファーブル家を手伝って

いたという説もある)。

それが将来二番目の妻になるマリ=ジョゼフィーヌ・ドデルという娘だった。

彼女は地元出身で1864年にセリニャンの貧しい家に生まれている。

つまりファーブルがアヴィニョンでアカネの染色研究に明け暮れている頃にやっと

生を受けた人なのである。

最初の結婚で生まれた末弟のエミールが1863年生まれだから、子供たちから見れば

一番下の妹といってよい年齢だったわけで、その彼女があの厳しい父ファーブルと

結婚するというのは前妻の子らにとって複雑な胸中だったと思われる。

 

この二番目の奥さんの家系図は全く不明で、親兄弟の名前もわからない。

子供については語るファーブルも自分の奥さんについては何も書き残していない。

そして最初の妻が逝去した二年後の1887年7月にファーブルは再婚している。

新しいファーブル夫人はまだ23歳、ファーブルはすでに63歳になっている。

ちなみにこの再婚の三か月前に前妻の四女クレールは駆け落ちして家を出ている。

したがってこの時セリニャンに居たのは、新しいファーブル夫妻、父アントワーヌ、

三女アグラエと犬のビュル、猫のジョネ一家ということになる。

 

40歳も年が離れているのになぜ結婚することを決めたのだろうか?

長男ポールが生まれたのは1888年9月なので、子供ができたからということでは

ないようだ。

彼女は高度な教育を受けた人ではない、ただ家政婦としてファーブル家で働いて

いたので家事全般が得意で溌剌としており、家長にも配慮のできる人だった。

ファーブルは華美な服装を好んだわけではないが、身だしなみには気を遣う人だ。

若いのに身の回りのことをしっかりやってくれる彼女に惹かれたのは当然だった

のかもしれない。

 

最初の奥さんは教師で頭は良かったのだろうが、そういった家事全般は十分とは

言えなかった。仕立て屋の娘だったのに裁縫も不得意で、意外なことに浪費家だった

という話もある。

子だくさんで余裕がなかったはずなのだが、浪費家とはどういうことなのか。

詳細は不明だが、女性なので衣服などたくさん買ったのだろうか。

それとも子だくさんで育児のストレスでもあったのか?

 

ファーブルとしては研究に専念したいわけだから、とにかく実務のよくできる若い

奥さんが家に居て、身の回りの面倒を見てくれるというのは魅力を感じたのだろう。

しかし、ただ単に世話をしてもらうためにということでもなかったようだ。

家長としては子供には弱みを見せられないわけで、どこか安らげるような人を求めて

いたのかもしれない。

彼女の写真が残っている。決して美人とは言えないが、ツンツンした感じがなく何と

なく安心できるような顔立ちに小生は見える。

実際に結婚生活というのはそういう人が重宝がられるのだろう。

 

長男ポールが結婚の翌年に生まれ、その一年半後に長女ポリーヌ、さらに三年後に

次女のアンナが生まれている。子供の名前の由来はよくわからない。

ポールという名はファーブルの母方の祖先にいるが、曾祖父でありそこから取った

とは考えにくい。

一番妥当なのは使徒パウロ由来ではないだろうか。

ファーブルは真のキリスト教徒にはならなかったが、家族が教会に行ったりすること

を禁止したわけではない。あくまでも信仰の違いであって他の者の信仰を否定したり

は決してしなかった。このファーブルの宗教の寛容性については尊敬されるべきこと

だ。自身が迫害されてきたが故に他者の宗教心については、個々人の問題だと考えて

いたのだと思う。そして聖書を物語としてはよく読んでいたようで、その中で好きな

のがパウロだった。

 

娘姉妹の名については母の家系図が全く不明なので推測できない。

比較的ポピュラーな名前なのであまり深く考えても仕方ないように思う。

ポリーヌ Pauline はポール Paul の女性形だが同じパウロ由来だろうか?

最初の結婚でよく使われていた "エミール" という名は、二度目の結婚ではまったく

使われていない(ブログ:ファーブルの家系図ーエミールという名前 参照)。

 

この妻は1912年に48歳の若さでファーブルより先に旅立っているが、子供たちが

逝去した年齢をみると、ポールは78歳、ポリーヌは84歳、アンナは83歳とみんな

長命でそれぞれ子孫を残している。

最初の結婚では子供たちと辛い別れを多く経験したが、二度目の結婚では三人の子

は無事に育ち、晩年の戦争を除けばセリニャン村で安定した生活をファーブルは

送れた。生活が比較的安定すれば研究、執筆活動にも良い影響を与えたはずだから、

若いファーブル夫人の功績は非常に大きかったといえる。

 

ただし、40歳差の結婚は田舎の小さな村では一大事で格好の噂になった。

当時の常識からみても村人たちの非難をファーブルは相当浴びたようである。

ドランジュ博士によるとファーブル邸に石を投げるものもいたそうだ。

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1913年アルマス庭にて娘姉妹。

小さくて見えないが立っている方がアンナか?

1915年に姉ポリーヌ、1914年に妹アンナは結婚。

特に姉は父のお気に入りだったが、ファーブルが旅立つ二ヶ月前に挙式した。

衰弱している父ファーブルに晴れ姿を見せておきたかったのかもしれない。

夫は獣医でファーブルも認めた相手だった。

妹アンナはやんちゃで父とも口喧嘩をよくしたそうだが、姉妹ともに結婚後も

アルマスをよく訪れた。

 

ファーブル伝

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