部屋が散らかってしまい、床に置かれた本が邪魔で人ひとり歩くのがやっととなり、
不愉快も限界に達したので片づけに着手した。進化論にブログで言及したくらいから
平積みが悪化したようだ。全部の本を読めるわけでもないのに買ってしまい収拾が
つかなくなった。ただ、とても参考になる本に巡り合うこともあるので、なかなか
収集は止められないというわけだ。
そもそも整理するといっても捨てられない書籍が多く、そうかといってもう収納する
場所もない。つまりお手上げなのだが、必要な本がどこにいったのか、資料はどこに
隠れているのか散らかっていて探し出せなくなることは避けなくてはならない。
なにより気分も良くないし、ホコリでクシャミや咳が出てしまう。これまでも小規模
な整理は時々していたが、今回は思い切って捨てきれなかった古い書類などいちいち
確認しバッサリ処分することにした。人生を考えた時に今までの時間より残りの方が
少ないのだから、それが部屋をきれいにしておこうと思い立った別の理由でもある。
遅々として進まないが、ファーブルについて書いておかなければならないこともまだ
たくさん残っている。
週に何日も片づけに専念できないのでずいぶん時間がかかったが、何とか部屋は片付
きつつある。たまっていたホコリも掃除できたので、心なしか空気が良い。
小生にしては晴れやかな気分で、億劫な毎日が少しずつだが変化した気がする。
身の回りをすっきりさせることは気分転換に最適なようで皆さんにもお勧めしたい。
さて、ファーブルの終の棲家があるセリニャンから北に直線で30キロほど行くと
ヴィヴィェというコミューンがある。フランスの地方行政はよく分からないのだが
コミューンは日本で言えば市町村にあたる名称だ。アルデシュ県という農業主体の
地域の中の一つのコミューンである。地図で降りてみるとあまり賑やかとはいえない
田舎の印象だが、そこに修道院があって建物は歴史的建造物として今も残っている。
なぜこんな田舎の修道院を探したのかというと、ここが20世紀初めにセリニャンの
ファーブル家に、一人の看護修道女を派遣した歴史があるからである。
彼女の名はシスター・アドリエンヌさんという方で、はじめはファーブルの二番目の
妻が体調を崩してからお世話をしてもらうよう依頼された。修道院の役割を小生は
知らないが、院での修養以外に慈善事業的な役割も果たしていたのかもしれない。
妻ジョゼフィーヌは津田正夫先生の著書「ファーブル巡礼」によると仕立て屋の娘と
いうことになっており、ファーブルより41歳も若くよく働き元気だったのだが、
とても苦しみあっという間に逝去してしまったということが伝わっている。
享年48歳、病名についてははっきりしていない。
しかし、派遣されたアドリエンヌさんはとても良い方だったようで、ファーブルは
彼女を気に入り引き続きセリニャンに留まってもらって、今度は体力低下の著しい
ファーブル自身のケアを依頼された。ファーブルは彼女が派遣元の規則で別の担当者
に交代してしまうことをとても心配したという。彼女の知性なのか性格なのか所作
なのか、好き嫌いが非常にはっきりしているファーブル先生だが、彼女とは相性が
良かったようだ。
ヴィヴィェの聖ロクス女子看護修道会というのがシスターの所属先である。聖ロクス
はカトリックでペストの守護聖人、実際に13世紀ローマでペスト患者の治療にあたっ
たとされる(以前紹介した際はロックと書いたがラテン語は Rochus で邦訳がロクス
となっているので従った)。アントレーグの司祭だったフロマン神父という人がこの
修道会の創設者であり、1859年に敬虔な少女4人を貧しいアパートに住まわせ、共同
の修道生活が始まったとされる。現在も会に所属されている人はいるのだろうか?と
思って調べると、少人数のようだが他の地域のシスターたちと連携しながら活動は
行っているようだ。
アドリエンヌさんは1912年にファーブル家に派遣されているが、身の回りの世話だけ
でなく、ファーブル宛ての手紙の返信などの雑務もこなした。視力も体力も衰えて
ファーブルは字を書けなくなっていたために書簡は彼女が代筆している。
彼女がファーブルの言ったことを書き、最後のサインだけファーブルがした。以前の
達筆なサインの面影は失われ、眼も悪く腕の力も無いのか、小さくとても弱々しい
ものとなっている。クリスマスという雑誌に彼女の写真が掲載されたことがあり
他に見たことがなく珍しいので載せておく。決して美人でもないように見えるが、
ファーブルが望んだのはそういうことではない。実務ができ内面の優れた方をやはり
好んだのだろう。1930年代の彼女のサイン入り名刺が、一度オークションに出たこと
があるので、その頃はまだ存命だったということになるが生没年は不詳である。
正式名はシスター・聖アドリエンヌという。聖アドリアンは4世紀にキリスト教徒迫害
の警護をして、後に殉教したので聖人になっているようだが、こちらから名を取って
いるのかもしれない。
セリニャンから南に行くと直線で25キロほどでアヴィニョンである。そこにも看護人
を派遣できる施設はあったようだが、アヴィニョンに辛い思い出のあるファーブルは
希望しなかったのかもしれない。しかし、アヴィニョンから追われたファーブルの
経緯はカトリック側もよく承知しており、アヴィニョン大司教ラッティが晩年の
ファーブルを訪問したり、アドリエンヌと連絡を取って、(良い方に解釈すれば)
ファーブルの魂が救済されるよう導くことを試みている。このあたりの経過は、この
ブログを書き始めのころに "ラッティ大司教の書簡" として紹介させて頂いた。
アドリエンヌは毎日、ファーブルが祈りを捧げてくれるよう苦心したようだが、
気に入らず譲れない文言の部分は猛烈に反発し、シスターを狼狽させたのだそうだ。
雑誌「クリスマス」1914年、ドルサン女史の記事より引用。
シスター・聖アドリエンヌ。
写真では30~40歳代くらいだろうか?
アドリエンヌ代筆のカード。9x12cm。
右図、カード裏面にファーブルのサイン。
ファーブルの信奉者、Marcel Coulon旧蔵。
セリニャン、1913年12月23日
親愛なる友人
愛情と称賛に満ちたカードに感謝しますが、
90歳になっても幸せになれないことをお伝えしなければなりません。
すごい勢いで下り坂になっている気がします。
親愛なる友よ、1914年の成功を祈っています。
J.H. ファーブル
12月21日はファーブルの誕生日、友人に祝いのカードをもらった返事らしい。
このサインの約二年後にファーブルは逝去するが、弱々しい筆力はこの時の
ファーブルの体力を示している。晩年のファーブルの言動には悲観的な内容が多い。
身体が弱ってしまい大好きな研究ができなくなったことが影響していると思われる。