しばらく前になるが、ファーブルの原稿や書簡の売り立てがフランスであった。
今なら迷わず目を輝かせ飛びつくところなのだが、当時は入札できるような
状態でなく心身共に不調な時期だった。
懐具合だけでなく、どうも体調の良し悪しはオークションに影響するようである。
どうしても欲しいという情熱が充分でないと入札価格が甘くなり逃すことになる。
昆虫記の原稿の一部も出品されており、何度か当時のカタログを見返してみたが
残念なことをしてしまったと後悔してももう後の祭りである。
ファーブルコレクターとしては失格と言える痛恨事だった。
いつまで悔やんでも仕方がないのだが、出品されていた中にファーブルの書簡が
あった。ファーブルにしては珍しく長い文章で数ページに及んでいる。
もちろん落手できていないので全文は不明で断片から内容を想像するしかない。
日時は1891年12月末に知人の議員に宛てた手紙である。
義理の息子からファーブルへ、その財産分与を法的に請求されたらしいのである。
それに対してどのように対処するべきなのかをファーブルは知人に聞いている。
家庭内戦争の勃発ということらしい。
いったいどういうことなのだろう…
そしてファーブルの言うこの義理の息子とはいったいだれのことなのだろうか?
ファーブルの最初の結婚で生まれた娘で、成人し結婚したと言えば次女のアントニア
と4女のクレールだけである。
長女エリザベスは1歳にならず早逝、3女アグラエは未婚。
となればアントニアの夫か、クレールの夫しかいない。
次女アントニアの夫はアンリ=ジュール・ルーという人で小学校の教員。
1891年当時は48歳で妻アントニアは41歳、二人の子供に恵まれ長男エミールは18歳
になっておりこちらはその後画家になっている。長女のルーシーは当時17歳、21歳で
農学者と結婚しこちらも子孫に恵まれ、ファーブル家の系列では最も現代まで多くの
子を残している。
アントニアは1898年、47歳でトゥルノンにて亡くなっている(死因不明)ので
夫婦はそのあたりに住んでいたと思われる。
注:いくつかトゥルノンの地名があり不詳だが最もセリニャンに近いのは
トゥルノン=シュル=ローヌ、セリニャンから北へ110km程。
どうもアントニアの方は1891年はまだ存命で、とてもあの厳父ファーブルに財産を
請求するとは想像しにくい。また夫もきちんとした人のようである。
したがって小生は4女クレールの夫ソーテルが訴えたのではないかと思っている。
(平凡社ファーブル伝ではソテル)
Marc Antoine Albert Sautel は1844年オランジュ生まれ、1921年にやはり同地にて
77歳で亡くなっている(ドランジュ博士の本では MarcでなくMarieと表記されて
いるが間違いのようだ)。
1887年4月、42歳の時に31歳のクレールと結婚するがファーブルは猛反対している。
しかし、クレールは父親の意見を聞かず、家出駆け落ちまでして結婚する。
ファーブルが猛反対した理由はよくわからない。
夫の年齢もあったとは思うが、ファーブル自身もクレール結婚の3ヶ月後に23歳の
ドーデル(ファーブル伝はドデル)と二度目の結婚をしているのだから、娘に文句
は言えない。
ファーブルは二度目の結婚でできた娘ポリーヌの獣医の夫との結婚には最も賛成して
いたという。やはり父親が結婚に賛成できない理由はそのあたりなのかもしれない。
ソーテル氏の職業が書かれていないことから推測すると、無職なのかそれとも公に
できないような仕事しかしていなかったということが予想される。
小生はこのソーテルという名前を調べてみたがそれほど珍しい名前ではないようだ。
オランジュ出身者にもたくさんいる、親戚では?という似た名前の人物もいたが
つながりは不明だった。
またオランジュ周辺を含む住所録も見たが、著名人としては見当たらないので役職
などに就いていた人ではないようだ。
ファーブルが書簡で相談したのはオランジュの議員である。ソーテル氏が住んでいた
のもオランジュなので同地の知人を選んだのかもしれない。
注:オランジュはセリニャンから南西5km程。
結婚当初、ファーブルはこのソーテル氏をセリニャンの自宅へは出禁にしているの
だから心底嫌っていたのだろう。最終的には結婚を許さざるを得なかったのだが、
何なら可愛い娘をかどわかされたくらいに考えていたのかもしれない。
ファーブルは「ラボレムス!」という言葉を好みずっと働き研究してきた人である。
何をしているのかわからないような人物などは最も蔑視したことだろう。
ではソーテル氏は何を要求したのだろうか?
ここからもまた小生の想像になるが…
駆け落ちまでして一緒になったクレールとの夫婦の時間は多くなかった。
二人の子供に恵まれたが、娘は1歳4ヶ月で息子は9ヶ月で早逝、ジャンヌとジャン
という名前は父ファーブルの名を冠したのかもしれない。
ならば子供が生まれた結婚翌年には父ファーブルとは和解していたのだろう。
しかし結婚4年後の1891年5月にクレールは亡くなってしまう。
つまり子供2人を亡くし、妻クレールも旅立ち、ソーテル氏のファーブル家との
つながりは希薄になってしまったのである。
義父ファーブルはどうかと言えば、1885年に妻は亡くしたが1887年には再婚し、
1891年時点では息子ポールが3歳、娘ポリーヌは1歳になり順調な家庭生活を
アルマスで送っている。
ソーテル氏から見れば、もともと自分は義父ファーブルには嫌われていたわけで、
妻子も亡くし縁も切れかけているという危機感があったのではなかろうか。
そこで、妻クレールが逝去した年にファーブルに対して財産分与を申し出たのでは
ないかと小生は推測している。
しっかりした職にソーテル氏が就いていないとすると、財政的な不安がその背景に
あったのかもしれない。
しかし、まだファーブルは存命なのだから財産分与というのはどうなのだろうか?
想像を拡げると、亡くなったファーブルの最初の妻、つまりクレールの母親が本来
貰うべきファーブルの財産をその娘クレールの代わりに夫である自分が相続しよう
ということではないかと考えられる。
最初の結婚で生まれ存命していたファーブルの他の子供達、アントニア、アグラエ、
エミールらが父ファーブルの再婚を本当のところどう思っていたのかは不明である。
しかし、亡くなった母親の貰うべき財産を相続しようという発想はなかっただろう。
それほど父ファーブルは大きな存在であったはずだ。
おそらく法的には亡くなった最初の妻の取り分は、彼女が結婚している期間に
ファーブルが稼いだ財産の半分である。
妻没年の1885年までにファーブルはたくさんの教科書を書いているのだから、
かなりの金額になったかもしれない。
その25%程度をソーテル氏が妻クレールの代わりに受け取るということになる。
(他の3人の子供たちは、その75%の取り分を請求していないと思われる)
ファーブルはこの出来事を、忌まわしい騒動と称し野蛮な事と感じていたようだが、
結局最初の結婚で得た収入の一部相続を認めたようだ。
しかし再婚して出来た二番目の家族達への影響は許さず、アルマスの自宅使用権は
譲らなかった。
ソーテル氏にはファーブルの強い反対にもかかわらず家族になったという経緯が
ある。この義理の息子の欲にファーブルは辟易していたようで、ファーブルの彼に
対する当初からの人物評は適正だったと言えるだろう。
小生はフランスの知人にこのような問題はよくあるのか聞いてみたが、決して珍しい
話ではなく一般的で争いにもなっていると言っていた。
1891年はファーブルは68歳で昆虫記第4巻を出版した年だ。
研究したいことは他にもたくさんあり、このような問題に貴重な時間を費やすのは
さぞかし不本意なことだったと思う。
セリニャンの風景
セリニャンにあるファーブルの銅像
(ブログ:閑話(3)ーファーブル先生の頭が… 参照)
オランジュのローマ劇場
1923年ファーブル生誕100年祭が行われた。
(ブログ:ファーブルあるある 参照)