昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ファーブルと食物連鎖のこと

ファーブルは意外だが肉食をあまり好まず、果物や野菜、少量のブドウ酒や

ラム酒を嗜好したという。これは決して菜食主義というわけではなくて、

身体のことを考えて偏らないようにしていたということのようだ。

息子のポールは血がしたたるような肉が好きだったが、ファーブルは好まず

食事中に徐々に不機嫌になり、そして気の立った家長に一言でも口をきく者は

いなくなって、家族はみな罵りを受けることになったという。

                      (平凡社ファーブル伝参照)

ファーブルは科学が発達して、将来はヒトの食事もゼリーや丸薬などで代用できる

ようになるかもしれないと述べている。そうなれば野蛮な狩猟は物語となり

農業用の家畜も過去のものとなるとさえ言っている。

 

ファーブル先生は、どうもこの世界の殺し殺されるような食物連鎖のシステムは

不完全なものであると考えていたらしい。

他者の命を戴かなくても仲良く暮らしていける様な世界を望んでいたようだ。

博物学者的ではないが、目の前でさんざん虫たちの殺戮現場を見てきたのだから

そんな考えに到ったのかもしれない。また、ファーブルが生きた時代は普仏戦争

などあったので、何かしら影響を受けたのだと考えられる。

昆虫記第10巻14章キンイロオサムシの章でも少し刺激的な表現で述べている。

胃腸が世界を支配しており、強者は弱者の悲劇を食い物にして生きていく。

生とは死だけにしか埋めることができない深淵だとファーブルは書いている。

                  (完訳ファーブル昆虫記10巻下参照)

 

個人的なことを述べると、小生は文系にあこがれつつ理系の分野に進学した

人間である。食物連鎖について詳しく習ってはいないが、ファーブル先生の

食物連鎖への違和感を今まで感じたことはなかった。

どんなに強者の生物でも寿命があって、生命の火が消えれば肉体は朽ちて土に

還るのである。こんなよくできたシステムが他にあるだろうかと、ずっと信じて

疑わなかった。そしてその土からまた生物が育ち循環していくのだから言うこと

はないのではないだろうか。

 

ヒトの場合は悪意や欲望を伴っていることが多いが、他の生物同士は無駄な殺生は

しない。強者が弱者を捕獲するが強者もまた最終的には大地に命を捧げるのである。

どんな生物も他者の栄養になることで命がつながっていくように思える。

日本人的に言えば、だからこそ食べ物を粗末にするなとか、食事のときには

いただきますと言いましょうとなるのだろう。

 

個人的な話が続いて申し訳ないが、小生は少し変わっていたのかもしれない。

高校生くらいの頃から、哲学用語で言うと、虚無的(これはニヒリズムというの

だろうか)に悩まされていた。

結局、生きているものはみな寿命が来るのに、一生懸命勉強したりあくせくと働い

たりすることに意味があるのだろうか?という問いで小生には大きな問題だった。

宗教を持たない者にとってはなかなか脱出しにくく、どうしても暗い気分になり

元気が出ないので、同窓会で昔の友人に会ったりすると「おまえは暗かったなぁ…」

とよく言われた。

まぁ、試験勉強で憂鬱だったんだろう、などと言って誤魔化していたが、

実はニヒリズム真っ最中ということだった。

そしてその問題は解決せず、モチベーションも上がらないまま、ずっと青春期を

過ごしていた。

 

哲学者ニーチェの言うような超人になれるわけでなく、何がきっかけで切り抜けた

のか現在に至っている。歳を重ねて悩みは薄れたが、転機で一つ覚えているのは、

ファーブル先生の仰っている食物連鎖の必要悪への思いかもしれない。

小生は不完全なシステムとは思わなかったし、なぜこんなものがあるのかとも考えて

こなかった。

システムの否定までは思いつかなかったけれど、ただ自分がここまで成長するのに、

いったいどれだけ他者の命を戴いてきたのだろうか?

そういうことには考えが及ぶようになっていた。

これだけ命をもらい育ててもらって、途中で投げ出すなどとてもできない。

無為な生活を送るなど、今まで捧げてもらった命にこれは失礼ではないかと。

せめてものお返しとして、自分は自分の寿命が来るまでは精一杯生きる義務がある

のではないか、そうポジティブに思えるようになった。

 

ただ、そんな考え方になるまではいろいろさまよった。

例えば食物連鎖に抗おうとしてか、自然と肉類が食べられなくなり、ちょっとした

菜食主義になった時期があった。

肉はもちろん、卵や乳製品も受け付けなくなりダメになった。

ただ小生には菜食が合わなかったせいか、体重が急激に落ち忙しい仕事も祟って、

あっという間に風邪がこじれ肺炎で入院するはめになった。

そこそこの歳になっていたので、なぜ食べられないかなど周囲にとても説明する気

にはなれず、ただ小生は自分の場合、動物性蛋白を摂らないとこうなってしまうのか

と痛感する経験になった。

それからは無理してでも食べるようになったが、今でも肉類が決して好みの食事

とは言えない。

 

肺炎で入院中に考えたのは、自分が肉類を受け付けなくなり一見食物連鎖を回避

できているように思えていたが、では植物はどうなのか?ということだった。

動物よりも抵抗は無いが、植物もよくよく考えると同じ命ではないのか。

動物を避けてその気になっていたが、全く食物連鎖の手のひらの上ではないのか。

そう思ってしまうと、何だか自分のしていたことがかえって上っ面な行為だった

ように思えた。

どうしたって他者の命をいただかなくては生きられないのなら、よく感謝して

頂戴し自分の寿命を全うするべきだ。

そんな気持ちになってから小生は救われた気がする。

 

ファーブルの食物連鎖のシステムへの違和感は、別の問題ともリンクしている

ように見える。つまり、神がこの世を創ったのならなぜ悪や災いなどが存在する

のかという疑問である。これはまた次の機会に触れたいと思う。

 

ファーブル伝

ファーブル伝

 

 

完訳 ファーブル昆虫記 第10巻 下

完訳 ファーブル昆虫記 第10巻 下