昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

閑話(7)ーミルと丹毒

ファーブルの恩人、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルの死因は丹毒

という病気だった。顔面という場所がわかりやすいので死因がはっきりしている。

(ファーブル伝 平凡社には水泡性丹毒と記載)

変わった病名だが、丹は赤いという意味があるので赤く変色した皮膚を示している

のだろう。

 

ファーブルと一緒に植物の研究をしており、体調を崩す直前も山野を歩き回って

いた。丹毒は顔面の皮膚感染症なので、歩き回ったのが誘因になったとは思い

たくないが、あまりの急逝にファーブルも驚き落胆したようだ。

なにしろ、ファーブルが迫害された際に彼を信頼し大金を融通したのはミルである。

退職金も恩給も支給されず困窮したファーブルに救いの手を差し伸べたミルには

感謝してもしきれないほどの恩を感じていたはずだ。

 

個人的な話だが、小生も丹毒に似た病気の蜂窩織炎に罹患したことがある。

ある時、膝の辺りに違和感があったが放置していたら、いきなり高熱になった。

関節痛と勘違いされインフルエンザという診断でタミフルを内服開始。

当然だがいっこうに解熱せず40度を超える見たこともない体温に突入した。

強烈な寒気と震えはインフル以上だった。

右足の膝付近の赤みがみるみる拡がっているのに気付き、解熱剤や抗生剤やら

に替えてもらい内服したが焼石に水…敗血症寸前だったようだ。

さらに点滴に変更になったもののしばらく高熱が続き、足は赤から紫色に変色、

これはもう切ることになるかもと覚悟した。

合計三種類くらいの点滴を試され、諦念気味の中、何とか足の色は徐々に回復、

それでも褐色のような色素沈着は取れずに今も残っている。

 

その後も手などが同じように赤くなることがあり、こちらは早めの手当てで何とか

重症にならずに済んでいるが、どうしてこんなに皮膚の感染症を繰り返すのか

不思議である。よほど小生の免疫力が低下しているのかと思っているが、どうやら

家にいる老犬が小生の手足をよく舐めているので、そのせいなのかもしれない。

歯槽膿漏と虫歯だらけなのだから無理もない、舐められた後に洗っても完全に

予防はできないようだ。

そんな口にしたのは飼い主の責任である。オスのミニチュアダックスで目が不自由

だが、臭いを頼りにヨロヨロと足下に寄ってくるのを恨む気にはとてもなれない。

しかし舐め癖から逃れる方法は考えなくてはならないようだ、なにしろ昨日からまた

右手が腫れているのだから。

 

世界初の抗生物質ペニシリンが発見されたのは1928年だから、19世紀には丹毒に効く

治療法は無かったはずだ。赤く頬あたりが腫れあがり高熱が出て、病状が悪化して

いく中でミルは死を予感していたと思う。

当時は丹毒で亡くなる方は多かった。

小生も腿まで紫色になった時は、少し考えた。

まさか自分が、こんなことで…でも現実なのである。

つい数日前は元気だったのに、こんなことになるとは…などと考えることになる。

ふだん元気な時は能天気で何も考えないが…どんなに医療や薬が発達しても、

死はごく身近にあるということをあらためて考えさせられる。

確かセネカの言葉で、死は間近でどこでも好きなところで通じている、というのを

読んだ気がする。(摂理について 参照)

そう考えると日常から死が身近な時代や地域の方が、生きる情熱も死ぬ覚悟も

できているのではないかと思う。

 

普段は遠くにあって感じないので、いきなり身近になって意識する事態になると

焦ることになる。そして自分がこの世界にいなくても世の中は何も変わらない、

だからよけいに寂しいし不安になってしまう。

そばに心配してくれる人、愛情を持ってくれている人、死んでも心のどこかにずっと

想っていてくれる人がいるならその人は幸せだ。

死に対する恐れは少し軽くなるかもしれない。

 

昔は治療法の無い疫病が流行すると皆、神頼みをしたそうだが無理もないことだ。

神社の願い事で "病気平癒" などは今もよく見かける。

何か行動しなければ気持ちが落ち着かない。

医者にお願いするのは当たり前だが人まかせだ、自分でも何とかしたい、

してあげたいという気持ちになるのは当然なのだから馬鹿にはできない。

神頼みは周囲の者や本人が自身の気持ちを安定させ、納得させるための行動なの

だろう。

 

ファーブルは魂の不滅を信じ、"より高貴なる生を送ることができる" 魂のみの世界

というものを信じていた。そして特定の宗教に縛られない神の存在を身近に感じ

ていたが、これはある意味ルソーが言っている自然宗教とも関係しているように

思える。

つまり自然に常に接し感受性の鋭いファーブルだからこそ、われわれ一般人よりも

強くいわゆる神と言われる存在を意識できたはずなのである。

これはルソー的には教会や人が介在しない、より自然な状態で本来あるべき姿の

宗教心を得るという自然宗教を結果的にファーブルは実践していたことになる。

 

しかし感受性平凡で自然との接触も希薄な小生にとっては、その至高の存在を簡単

に感じることはできず、豊かな宗教心も得られそうもないのだから、いざ死が切迫

した際にじたばたせずに臨めるのかどうか不安である。

信じられずに最期まで苦しむのか、それともニーチェが言うように宗教がなくても

乗り越えていける強者にならなくてはいけないのかもしれない。

 

ただ最近考えるのは、神とか宗教とかあの世とか難しい話ばかりに執心する以前に、

それまでの人生で世話になってきた身近な人たちへ、感謝の気持ちをしっかりと

伝えられるなら、それだけで十分に幸せな最期ではないかと思うようになっている。

 

Collected Works of John Stuart Mill: Essays on Ethics, Religion and Society

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