昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

椎名其二ーフランスから若き日の書簡

この夏に庭にあったイタリアンパセリにイモムシがたくさんついていた。

緑と黒の線が鮮やかなキアゲハの幼虫である。触ると怒ったように臭角なるものを出

して、臭いにおいを何度か嗅がされた。ムシャムシャと葉を食べて、毎日見るたびに

体がひと回り大きくなっていくので驚いた。少し前に、老犬を看取って心に空洞が

できていたので、何だか生きて一生懸命、葉を食べているイモムシに愛着が湧いて

しまい、ろくに区別もつかないのに、大きさ順に適当だが、アゲ太郎、アゲ次郎、

アゲ三郎……アゲ七郎……などと勝手に名前をつけ楽しんでいた。

さすがにパセリの葉が不足してきて、これはまずいということで、離れたところに

あるキンカンの木に移動させた。やさしく掴んでも一瞬イモムシは身体を硬くする

ような気がした。反射だろうか?、死んだふり?か、小生には分からないが、これで

ころんと地面にでも落ちるなら、そういう特徴を持ったものが生き残ってきたという

ことになるのかもしれない。

さて移したまでは良かったが、イモムシたちはさっぱりキンカンの硬い葉を食べよう

としない。どうもアゲハ違いだったようで、キアゲハの幼虫は召し上がらないよう

だ。これはまずいということで、急遽近隣の植物など販売しているショッピング・

センターへ行き、同じイタリアンパセリをたっぷり購入、アゲ太郎たちに献上した。

そうこうして楽しんでいたのだが、ある時彼らの異変に気が付いた。昼までは変わり

なくイモムシたちは居たのだが夕方になって見てみると、数が減っているのである。

まだ食べる葉はたくさんあるし、そろそろ蛹になるために移動でも始めたのか?など

考えたがどうもおかしい。まだ中くらいの大きさのものも失踪していたからである。

スズメらしき鳥は近くをよく飛んでいるので、どうも鳥に持っていかれていたようだ

った。傘などでパセリの上方を覆ってみたりしたが、結局毎日持っていかれた。

一匹だけ朝方パセリを離れて椿のある塀の近くに移動しているのを見つけた。これは

いよいよ蛹への準備かと思って楽しみにしていたが、こちらも持っていかれた。

ずいぶんショックだったが、あんな目立たないとこにいても探し出されることに驚か

された。鳥も生きるのに必死なのだろう。

それにしても、イモムシはパセリの緑に紛れてはいるが、鳥からすればあの模様は丸

見えである、キアゲハの幼虫は目玉模様もなく、よく肥えた身体は鳥にはごちそうに

しか見えないはずだ。間抜けな小生は雛のお食事をせっせと準備してあげたという

ことになる。あらためて食物連鎖の厳しさを教えられたが、これだけ捕食されて、

いったい何分のいくつの個体が成虫になれるのだろうかと考えさせられた。いったん

見つかれば場所は覚えられ、もうその場所で成長していくのは厳しいからだ。

 

さて、虫屋でない小生のどうでもよい観察話は終わりにして、

前々回にロマン・ロランの書簡を紹介したが、ロランに惹かれファーブルにも関わっ

た日本人というと、椎名其二がすぐに思いつく。大杉栄のあとを受けて、昆虫記第二

巻から四巻までとルグロ博士のファーブル伝(フアブルの一生)を翻訳し叢文閣から

出版している。第一巻を訳した大杉栄が常に注目されるが、小生はこの椎名其二

(呼び捨てをご容赦下さい)に以前から興味を持っている。彼は二度日本に帰って

きている。最初は早稲田の教職をされているが辞めてフランスへ戻り、二度目は晩年

に帰国されたが、やはり祖国に馴染めずに戻られた。どこがどうと説明しにくいが、

その生き方にも、他の方が伝える彼の言動などにも惹かれるのである。直接会って

影響を受けた人、交流のあった方々が小生は羨ましい。

 

中央公論という雑誌に四つの文章を寄稿されていて、非常に興味深い。

「自由に焦がれて在仏40年」という共通のテーマで書かれている。雑誌はなかなか

入手しにくくなっており、以前も書いたが、誰か彼の書いたものをまとめて下さら

ないかとずっと思っている。

椎名其二はたくさんの文章を書き残さなかった方である。書いたものはあったそう

だが、みな焼いてしまった。敬愛する思想家らの文に接して書き残すものはないと

判断されたのかもしれないが、読む側としては残念である。

パリの地下のような場所に住んでいたが、そこにはいろんな人が出入りしたようだ。

多くの逸話が残っているが、ある時、知り合いの娘さんが相談に来たのだという。

妊娠したが相手と上手くいかず、親にも反対され困り果てて椎名氏に助けを求めた

そうだ。これは蜷川譲氏の著作にも紹介されているが、小生はその内容に感激して

しまった。昔でも今でも、はたしてフランス人のマダムの家に単身乗り込んで、

フランス語で説教できる日本人がいったい何人いるだろうか?と思う。

興味ある方は読んでみて下さい(パリに死す 藤原書店 1996年 第一章参照)。

 

ロランに惹かれたこともあってフランスに住んだ椎名其二だが、以前入手した彼の

書簡の中にロランに関連する部分があったので、一部だが紹介しておく。

大正6年3月20日の日付 秋田の実家宛て

……略……

私は今迄になかった程丈夫でそしてほんとうの百姓たちにもおとらない程よく働いて

います。私はもう牛や馬や豚にもよく慣れました。小供だった時分、左様した動物の

糞は― 更に間違った考えは此の有りがたい神聖な土さへも汚いものだと人にも教えら

れ自分でも思われたのだったが、今では私の眼にをれ等が美人の頸飾りの眞じゅの玉

よりも奇麗にー ほんとうに奇麗に見えます。そして私は左様云ふものにぬらぬらした

手で以って一と片れのパンをもいただいて食ふのです。すべては神の仕業だー すべて

は労働の結果だと思へば有りがたい。何も彼も尊ふとく有りがたい。

……中略……

主人なる人が国会議員です。妻なる婦人は本四五冊も書いている可なり名の知れてる

人です。先頃パリーから帰ってきて二週間許りいてそしてまたパリーに帰ってゆきま

した。私を度々呼んで色々な面白い話をしました。特に婦人は今フランスでも第一等

の文学者であるロマン・ロランと十年来の友だと云うので私に珍らしい色々な話を

してくれました。ロマン・ロランは痩せた弱々しい男だ。眼許りの男だ。実に感じが

鋭いけれどもまた静平其物と思はるる男だ(五十才)などと云っていました。婦人は

私に二千許り本の入っている図書室の鍵を置いてゆきました。所謂「若勢」の身分で

いてそうした待遇を受けた事が村の評判を生んだりしました。何しろ始めて見る日本

人が富豪で有力家の図書室に勝手に出入りしたりするのだから。

しかし労れた夜のたった二時間では何も出来ないのを悲しく思ふています。

此の国に永住の覚悟で一つ何んかしやうかなどと考えてみたりする事もあります。

……略…… 其二

注:大正6年は椎名が30歳の頃である。

「大道」という雑誌に椎名の略歴があり、これによると大正三年にフランスに渡り

ルクリュ家の学僕となった後、フランスの商務大臣を勤めたクリュッピ農場に行き

ロランの親友であったクリュッピ夫人の知遇を受けたとある。

「若勢(ワカゼ)」は東北の方言、期間契約で雇われた若者(パリに死す 藤原書店 

第四章参照)。 

早稲田文学1981年6月号、近藤信行著「椎名其二の手紙」によると、椎名は兄の奥様

に恋慕の情を抱いていたという書簡が紹介されている。今回紹介の書簡は宛先を見る

と、その方へ宛てたもののようである。自身の近況を知らせるとともに、異国で厚遇

され元気で働いているという内容で、前向きな気持ちとどこかしら誇らしげな様子も

うかがえ、ちゃんとやっていると伝えているように思える。

そして、労働の喜びと土への感謝のくだりも目を引く。貧しい農村の出身であって、

地面に何時間も這いつくばり、一生を研究に捧げたファーブルに椎名が惹かれたとし

ても不思議はないと感じさせる文である。椎名は昆虫記の翻訳を情熱をもって取り組

んだことが知られているが、1915年にそのファーブルが逝去したニュースを読んで、

自分の父親が死んだかのように感じたと親友に書き送っている(上記同書第三章)。