昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ユラ県レルウスのファーブル邸

前回ブログで椎名其二について触れたが、交流のあった人物の中に作家の芹澤光治良

(こうじろう)という方がいる。

たくさんの作品を書いておられるものの、小生には縁が無かったのだが椎名其二との

関連で目を通すようになった。「女の都・パリ」昭和34年 新創社刊という作品では

シイナさんという名前で椎名をモデルにしたと思われる人を登場させている。

この作品の中で、シイナさんがファーブルについて述べている部分があり興味深い。

ただし、シイナさんの家族についても大胆に触れているためか、作品自体は椎名本人

には不評だったようだ、興味のある方は参考にしてみて下さい。

以下一部引用(同書 女の都 三章より)。

 

”その頃、私は英語でファーブルの昆虫記を読んで感心して、フランス語が上手に

なったら、ファーブルを訪ねたいと、その一念で、フランス語を独習していたんです

が、…中略… 私の希望は何かときいてくれました。私はファーブルを訪ねたいこと、

ファーブルの土地を知りたいことなど話すと、夫人はフランス語で話した褒美だと

いって、紹介状と旅費をくれて…、そんな訳で私はすぐプロバンスへ発ちました。

古いことです”

 

これは小説の中のシイナさんが話していることなので、どこまで事実なのかわからな

い。この後どうなったのか、実際にファーブルに会ったのかも小生は知らない。

1916年頃(大正5年、29歳)椎名其二はピレネー山麓のクリュッピ家農場で世話にな

っている。引用文内の親切な夫人はクリュッピ家夫人のようで、作家ロマン・ロラン

の友人でもあったそうだ。(パリに死す 藤原書店 蜷川譲著 第4章参照)

 

シイナさんはアルマスのファーブル邸を訪ねるだけでなく、実際にファーブルに会う

ために向かったようにも思えるが、椎名は親友宛ての1915年の書簡でファーブルが

亡くなったことについて知っており、東に200キロ離れたファーブル邸に行けたと

しても1916年ではファーブル本人にもう会えないことはわかっていたはずである。

 

以前のブログでアルマスを訪ねた日本人について述べた。1931年頃に大橋博士が

アルマスを訪問しファーブルの娘アグラエに会っている。

もし椎名其二が実際にアルマスのファーブル邸を訪問していれば、大正5年頃なので

大橋先生よりもずいぶん前ということになる。訪問した最初の日本人だろうか?

フランスに留学した日本人はかなりいるので、引き続き調べたいと思っている。

 

他にファーブル関連で気になったのは、「こころの広場」昭和52年 新潮社刊という

作品の中の第三章 ”思い出すこと” で、芹澤氏はジュネーヴに滞在した時のことを書い

ている。この中にファーブルの名前が突然出てきたので小生は非常に驚いた。

作品から一部以下に引用する。

 

”ユラの高原を歩いて、わびしい「レルウス」という町のきたない家の前に駐車した

ところ、そのおんぼろの家の壁にーファーブル教授の故郷の家。ここで教授は仕事を

され、教授夫人が1958年に町に寄贈したという、石板がかかげてあって、仰天しまし

た。あの「昆虫記」を書いたファーブルはそのみすぼらしい家に生れ、ここであの

研究をしたのかと、しばし立ち去りがたく…中略…

ファーブル夫人もとうに亡くなり…中略…

ユラの高原が、それからはちがったように、私の目には映りました。”  

 

小生はこの作品内に出てくる地名とファーブルがどうしてもつながらず、かと言って

放置するのも気になるので少し調べてみた。住所などは作品内に書かれていないので

名前からの推測であるが、グーグルマップでスイスのジュネーヴを見ると確かに

フランスは非常に近い。そこからユラ高原という名前やレルウスという町を探した。

地図で見つけたのは Jura ジュラという県である、非常に近くにあり緑が多いところの

ようだ、自然公園がありジュネーヴから直線で20キロ程度で入れるので車なら簡単だ

ろう。この辺をユラ高原と芹澤氏は称したのかもしれない。

さらにそのオー=ジュラ自然公園から北北東へ10キロ程進むと、レ・ルスという町が

ある。Les Rousses という綴りで「レルウス」と作品内にある町はどうもここらしい。

ここはジュラ県のコミューンの一つでスキー場などあり、人口は3000人台でやはり

自然が豊富な場所のようだ。

 

とりあえずやみくもにグーグルマップでこの町を散策してみたが、ファーブルの家

らしき建物は見つけられなかった。それにしてもファーブルやファーブルの家族と

何も関係がないと思われるこの町に、ファーブルの故郷の家が寄贈されたというのは

どう考えてもおかしなことである。1958年に夫人により寄贈というのもどうだろう?

ファーブル夫人はとっくに逝去されているので年代も合わない。

仕方ないので町に問い合わせてみたが、あるのはパスツール像だけとのことだった。

 

作品の原稿が書かれたのはサンテグジュペリが行方不明になった30年後と作者自身が

作品内で言及しているので、1974年ということになる。そのころは既にファーブルの

生家は地元のガヴァルダ夫人が記念館にしているので、どう考えてもつじつまが合わ

ない。南西方向に300キロ以上も離れたところに、ファーブルの生まれたサン・レオン

はあるのである。

 

では芹澤氏の勘違いなのだろうか?

レ・ルスという町について調べて行くと、この町で生まれた有名人の中に皮膚科医で

モーリス・ファーブル Maurice Favre という高名な方がいることがわかった。

この町で生まれリヨンで1954年に亡くなっているので、1958年に夫人が生家を町に

寄贈したというのも年代的には合致している。作者の見間違いの可能性が高くなった

が、フランス留学経験のある同氏が石板の文字を見間違えるというのも、どうも納得

が行かない。ファーブル教授の故郷の家と書かれていたそうなので、モーリスは抜け

ていたかもしれない。いわゆるファーブルあるあるでプロフェッサー・ファーブル

の名前から日本人が連想するのは、昆虫学者ファーブルのみである。

 

同氏がそれほどのファーブル好きでなければ FavreとFabre の見間違いはあり得るが、

どちらも鍛冶屋の意味があり、特にジュネーヴ付近はアルピタン語由来の前者が主流

のようだから紛らわしい。夫人の没年なども興味がなければ、1958年に寄贈された話

も不思議には思わないだろうから、勘違いする条件は揃っていたのかもしれない。

 

こころの広場 (1977年)