大杉栄の名を知ったのはもちろんファーブル昆虫記の翻訳者としてである。
無政府主義者で、大正12年9月1日11時58分に発生した関東大震災後の9月16日に、
憲兵に連行され殺害された。明治18年(1885年)に生まれ、大正12年(1923年)に亡くな
ったのでまだ38歳なのだが、関連書籍など読んでいるとそんな若さとは思えない。
小生が30歳台の時を考えると、到底比較など出来ないような生き方をしていて、人生
の濃密さの違いに驚かされる。
（大杉に関する著作では "諧調は偽りなり" 文春文庫 瀬戸内晴美著 が参考になった）
政治的な話にあまり興味のない小生では、彼の主義主張は理解できていないのだが、
拘置所に入る度に多くの本を読破しており、昆虫記もその中に入っていたようだ。
しかし、たまたま昆虫記を読む機会があって翻訳したというよりも、大杉は生物学に
ついて興味があったため（大杉の獄中記という作品内の千葉の巻という章には、まず
社会を組織する人間の根本的性質を知るために、生物学の大体に通じたい。とある）
大正3年には既にダーウィンの "種の起原" の出版を始めている。
大杉が非常に好んだファーブルは反進化論者だったが、進化論についても彼は肯定的
な立場だったようだ。
「昆虫記」という名を付けたのはさすがだと思う。「昆虫学的回想録」でも普及は
しただろうが、シンプルでインパクトがあるし、名前を見ただけでも読みたいと思わ
せてくれる。叢文閣という出版社から刊行されていたので、現存する同名の古書店に
以前、関連があるのか小生は問い合わせたことがあるが、全く関係ないとのことだっ
た。今ではその初版本を探すのは容易でなく、ほとんど見かけることもなくなった。
昆虫記を出版した叢文閣を創業したのが、足助素一(あすけ そいち) である。
作家の有島武郎と親交が深く、出版を通して多くの知人を助けたようだ。興味深い方
なのでまた別の機会に触れたいと考えている。
大杉が亡くなったため昆虫記第一巻のみで彼の翻訳は終わってしまったが、椎名其二
など第二巻以後の訳を引き受ける人達がいたというのは、「昆虫記」出版の歴史にと
っては大きな事だったと思う。
コレクター的には国内の初期の昆虫記関連品も集めているが、大杉の昆虫記原稿が
市場に出てこないのは残念である。いったいどこに行ったのだろうか？震災や戦争で
すでに散逸しているのかもしれないがぜひ見てみたい。
昆虫記第一巻には大杉自身の序文が入っている。これを読むと翻訳は主に原文に拠り
ながら、所々英訳を参照したとある。獄中でファーブルの本を読むと非常に面白く、
他の差し入れ本は後回しにして読み耽ったそうである。
ファーブルの昆虫記が堅苦しい研究書で終始していたら、大杉の目に留まることも
なかっただろう。もちろんその前に英訳本が出ることはなく英語圏での普及もなかっ
たと考えられる。大杉訳の昆虫記が出版された大正11年(1922年) はファーブルが逝去
してから7年しか経っていない。こんなに早く紹介されることもなければ、今ほど日本
でファーブルが広く認知されていたかどうか分からないのだから、大杉の貢献は非常
に大きかったと思われる。
大杉栄原稿
「女と悪魔」大正3年 新潮社刊という手のひらサイズの警句集で、この序文を大杉が
書いている。訳者の安成二郎は歌人、小説家で大杉の雑誌「近代思想」の編集、投稿
もしていた。ファーブルとの関連ではファブル科学知識叢書及び全集の翻訳に参加。
どのような方なのか小生にはまだ勉強不足だが、悪く言う文を見ないので人望ある方
だったのかもしれない。日蔭茶屋で大杉に切りつけた神近市子から安成に宛てた獄中
書簡についてもいずれ紹介したいと思っている。
震災経験者のお婆さんから以前聞いた話だが、当日は朝から空がピンク色に染まって
いたそうで、何かおかしい…と感じて強く印象に残っているという話をうかがった
ことがある。
