昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

最初のファーブル伝

ルグロ博士の書いたファーブルの生涯、いわゆる ”ファーブル伝” は1913年が初版だ

と前ブログまでで言及してきたが、実はこの三年前の1910年に最初のファーブル伝と

言えるものが同博士によって刊行されている。

題は " J.-H. Fabre naturaliste " (J.-H. ファーブル 自然主義者)

150頁ほどの薄さで1913年のものに比べると半分ほどしかない。オベルチュール印刷

というパリの出版社から刊行され、1913年のドラグラーヴ社版と表紙が異なる。

ファーブルの横顔が彫られたメダルの写真が掲載され、シカールの造ったファーブル

像の写真も数枚目に載っている。

内容は1913年版よりずっと薄いだけあって、時代ごとの出来事をあまり詳細に書く

ことはしていない。というか、いろんな関係者からの聞き取りや資料の確認がまだ

不十分で、内容をふくらませたり肉付けするような状態ではなかったのだろう。

主にファーブルから聞き取ったり、昆虫記に書かれているファーブルの人生や業績に

関わる部分を参考にした内容のようである。もしかすると、1910年に行われた昆虫記

を記念する会に合わせて刊行したのだろうか?

しかし、この本だけではファーブルの生涯を語るには不十分だと博士は感じたのだろ

う。1910年版を足掛かりにあまり時を置かず、1913年版をドラグラーヴ社から刊行

することになる。ファーブルとの交流の中から、博士は伝記を少しでも立派なものへ

仕上げたかったはずだが、衰えの目立つファーブルを前に焦りもあったと思われる。

1915年にファーブルは逝去しているので、存命中だった1910年版、1913年版には

最終的なファーブル伝にはある最後の二章分は付いていない。1924年の決定版昆虫記

の出版の際に出たファーブル伝になって、やっと第18章の "人生の黄昏時に" という

章以降が書かれる。

ちなみに18章の最後の言葉は、昆虫記を例えて以下の文で締めくくられる。

「しかし、この本の中身を汲み尽くすことはそう容易くはできないであろう。

なぜならこれは、自然の聖書のようなものだからである。」(集英社版ファーブル伝

第18章より)

 

また、原書ファーブル伝1910年版には、表紙から6枚目に以下のファーブルの言葉が

掲載されている。

Un peu de glaire animée, apte au plaisir et à la douleur, dépasse en intérêt l'immense

matière brute.

調べてみるとこれは格言ではないが、昆虫記六巻14章「イナカコオロギの歌」の最後

に出てくる言葉である。

直訳だと、

「喜びと苦しみを感じ取れるわずかばかりの命ある卵白は、興味深さにおいて無限の

原料(原始的物質)を凌駕している。」

これでは何のことか分からないので、集英社版完訳ファーブル昆虫記第六巻下第14章

より以下引用すると、

「喜びと苦しみを感じることのできる、少しばかりの生きた蛋白質は、興味深さと

いう点では、厖大な無機物よりずっと上なのである。」となる。

ファーブルはこの14章の最後の段落で宇宙とコオロギを比較し、宇宙がどんなに驚嘆

させられ圧倒させられるものであっても、そこには生命の秘密が欠けており、魅力を

感じないという内容のことを述べている。

ここの段落は素晴らしい文なので、読んでない方はぜひ一読して頂きたい。

 

最初のファーブル伝に掲載されたこの昆虫記六巻14章最後の言葉は、小生では非常に

読み取りにくい文である。例えば、この文の中の単語 glaire は卵白という意味で、

小生の仏和辞典にはいくら見ても蛋白とは出てこない。しかし、卵白のままでは確か

に分かりにくい、卵白は蛋白で主に構成されているのだから、蛋白と訳した方が生物

を表現するのに分かりやすいというわけだろう。

さらに、l'immense matière brute 無限の原始的物質というのも意味不明なのだが、

蛋白(有機物)との対比で、もしこの世に無機物がまず広く存在していたのなら、

原始的物質は無機物を示すということで理解はしやすい。

小生の考えと違って、叢文閣版昆虫記、岩波版、集英社版に至るまで、この部分は

みな蛋白(質)、無機物(質) と訳されているのだから悩む場所でないのかもしれない。

 

蛋白(有機物)との比較でいろんな元素など含む無機物を挙げているが、無機物とは

一般に有機物を除いたものを指し、有機物からは生命が誕生する。生命のない無機物

と生命ある有機物を対比し訳すことで、ファーブルの意図することを分かりやすく

説明しているというわけだ。ただし、現代では無機物から有機物は作れるとされてい

るようで、これだと分かりにくい話になってしまうのだが、あくまでもファーブルの

意図は命なき世界よりも命のあるものに惹かれるという主張である。

 

さらに、この14章の言葉は前にブログで述べた、"底辺から貴き高みへ" という格言に

通じるものがある。ルグロ博士がファーブルの格言として、ファーブル伝の表紙に

掲載したこのラテン語は、ファーブルの研究姿勢の核心であり大きな意味を持つ。

(ブログ:ファーブルの格言ー De fimo ad excelsa 貴き高みへ 参照)

足元の小さな昆虫にこそ生命の不思議があって、だからこそファーブルは一生をその

研究に捧げることになったのである。

 

「喜びと苦しみを感じることのできる、少しばかりの生きた蛋白質は、興味深さと

いう点では、厖大な無機物よりずっと上なのである。」ルグロ博士は昆虫記六巻14章

のこの言葉を気に入って、1910年版ファーブル伝に掲載していたのだと思われるが、

表紙のラテン語の格言の方と意味合いが重なるからか、1913年版以降のファーブル伝

では割愛されてしまったのは非常に残念である。

1910年版 ファーブル伝。

J.-H. ファーブル 自然科学者とあり、表紙はシカール作成のプレートの写真。

右下にファーブルのラテン語の格言 "底辺から貴き高みへ" が記載。

オベルチュール印刷所(Charles Oberthür はフランスのアマチュア昆虫学者)。

二番目画像のファーブル像もシカール作成のもの。作成風景は「ファーブル巡礼」

新潮社版 272頁に掲載されているが、彫刻家名、作成年は間違っている。

三番目画像が昆虫記六巻14章より引用されたファーブルの言葉。