昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

アヴィニョンの生徒たちードヴィヤリオ

昆虫記第一巻第1章スカラベサクレの冒頭は素晴らしい文章で、長い昆虫記の中

でも小生が好きな部分の一節である。

集英社版完訳ファーブル昆虫記第一巻上より以下に引用。

「ざっとこんな具合に話が進んでいった。私たちの人数は五人か六人、私がいちばん

年上であり、ほかの連中の先生なのであるけれど、それ以上に彼らの仲間であり

友だちなのであった。彼らは若く、熱い心と陽気な空想力をもち、あの、人の心を

開き、ものを知りたい気持ちでいっぱいにする、人生の春のみずみずしい力に満ち

みちていた。…」

これが叢文閣版大杉栄訳では、

「それはこんな顚末であった。私達は五人か六人いた。私は一番年長で、皆んなの

頭ではあるが、それよりももっと皆んなの仲間であり友達であった。皆んなは熱情の

こもった、にこにこした空想に充ちた、そして知識慾を湧き立たせる青春の血の漲っ

た、青年であった。…」

岩波版山田吉彦

「事のなりゆきはこんな具合だった。我々は五人か六人だった。私は一番年上で

みんなの先生であったが、それ以上に仲間であり、友達だった。彼ら少年たちは

燃え易い心と楽しい空想とを持ち、我々に好奇心をそそり、知識欲にかりたてる

あの人生の春の潮に満ち満ちていた。…」

アルス版岩田豊雄

「萬事はこんな風だ。我々の仲間は五人か六人、私は一等年嵩(としかさ)で、

彼等の仲間であり、友達であった。彼等はみな熱情的な心と輝かしい空想を持った

青年達で、湧き立つばかりの知識慾に青春の血が溢れていた。…」

 

最初の部分の原文は、Les choses se passèrent ainsi. である。

直訳だと、「このような経緯がありました」だが、上記のような訳文になる。訳者に

よって異なりそれぞれ味わいがあるが、集英社版は読みやすく読者に優しく感じる。

またファーブルの想いもよくこちらに伝わってくるようだ。ファーブルと若い教え子

たちが、わくわくしながら昆虫や自然の観察に出かけている光景が、160年も前の

ことでなく今現在のように思い浮かべられるのである。

 

さて、この昆虫記冒頭に登場する話は、ファーブルがコルシカ島から本土に戻って

きて、アヴィニョンで教師生活を再出発させた1853年から、迫害されアヴィニョン

追われる1870年頃までの間のことだ。アヴィニョンの西側に沿って南北に流れる

大きなローヌ河を渡ればガール県となり、そこにレ・ザングルという場所がある。

アヴィニョンからローヌ河を渡るには現在は2つの橋があるが、当時はどこを通った

のだろうか。地図でレ・ザングルの表記がある場所は今は住宅が並ぶが、その西寄り

にイサール通りという道があり、そこから西側の部分は砂地と低い木がある場所に

なっており、ファーブルが観察に使ったレ・ザングルの丘なのかもしれない。

また東西に流れるデュランス河がローヌ河と合流する地点があり、その付近にもまた

イサール通りと名が付いた道があり、ここらがやはり観察に使ったとされるイサール

の森と言われるところのようだ。木々は多いが足元の草の下はやはり砂地なのか、石

ころも多く転がっている。残念だが google map で降りられる場所にはなっていない。

休日に好きな昆虫観察でこのような所へ出かけるというのは、さぞかし気分が高揚し

たのではないかと思う。

 

この辺りは昆虫観察に適していてファーブルがお気に入りの場所になっており、休日

になると生徒を連れて訪れていた。そして、この様子が昆虫記冒頭部分で描かれて

いたというわけだ。アヴィニョンから5~6 ㎞ 程度、県外だが生徒を連れて行けない

距離ではなさそうだ。昆虫記には、私たちの人数は五人か六人と書かれている。

ファーブルを除くと四人か五人となるが、ファーブルは先生というよりはやや年上の

兄貴分といったところだった。そして、このアヴィニョン時代の教え子たちの中に

非常に優秀な生徒がいて、彼らはこのファーブルの自然観察に同行していた。中でも

三名については名を残しており、卒業後もファーブルと交流が継続し、先生と生徒と

いう関係だけでなく生涯の友人になった。

 

アンリ・ドヴィヤリオはそのうちの一人である。Henri Devillario で生没年ははっきり

しない。ただファーブルのアヴィニョン時代に高校生だったので、1835~53年の間の

生まれということになる。ファーブルとの書簡が残っており日付が1880~88年なので

その頃は存命だったはずだ。しかしながら、1924年2月の日付でルグロ博士が著書の

ファーブル伝のまえがきの中でドヴィヤリオ夫人に礼を述べており、この時にはもう

逝去していたようだ。ルグロ博士はファーブルにゆかりのある人々に聞き取りをして

ファーブル伝を執筆しているので、存命だった夫人の方に情報をもらったのだろう。

ファーブル伝に彼の名前は少しだけ登場する。ただドヴィヤリオなのかドヴィラリオ

なのか訳者によって和訳は割れている。同じファーブル伝であっても奥本先生訳の

集英社版、椎名其二訳の叢文閣版、平岡昇・野沢協訳の白水社及び講談社文庫版は

前者、平野威馬雄訳の河出書房版は後者である。発音は後者に聴こえてしまうが、

訳の多い前者の方をこのブログでは選択しておく。

 

ファーブルの晩年の知人で教師のジュリアンという人は1925年にファーブルの詩集を

出版しており、彼がメルキュール・ド・フランスという有名な雑誌にドヴィヤリオ宛

てのファーブル書簡を寄稿しているので、以下に少し紹介しておく。

ジュリアンによるとドヴィヤリオは故郷のカルパントラで予審判事、法廷議長などを

務めた人物とされている。収集家で古生物学にも興味があり科学ジャーナリスト

してファーブルの仕事や著作を一般の人々に紹介したという。ただ、彼がファーブル

を紹介した記事を小生はまだ見つけられていない。

 

親愛なる友よ

あなたのイモムシは、昨年私たちが見た、北から南へ無数の群れをなして移動する蝶

とは何の関係もありません。その蝶は、アメリカではペインテッド・レディとして

知られているヴァネッサ・カルデュイです。イモムシはアザミを食べて生きている

ので、あなたが言うような被害には責任を負いません。さらにヴァネッサは昼間に

飛ぶ蝶ですが、あなたのイモムシはボンビックス属の夜行性の蛾に属します。私の

手元には蝶の生活史に関する資料がないので、あなたのイモムシがカシノギョウレツ

ケムシなのかマツノギョウレツケムシなのかを言うのは躊躇われます。しかし、私は

後者だと思います。どのような木を襲うかで決まると思いますが、それについては

何も仰いませんでした。樫の木についたのですか?それなら前者です。松の木?それ

なら後者です。分類の観点から見たイモムシの歴史については何も知らないので、

その先には進めません。

あなたはホシツリアブの事を考えずに5月を過ぎてしまいましたが、それはあまり

重要ではありません。8月になれば、成功の望みを持ってこの問題に取り組むことが

できるでしょう。8月の最初の2週間は、産卵の代わりにケアシスジハナバチが出没

する斜面の上で交尾が行われます。昆虫学者を悩ませるこの奇妙なパズルで、私を

正しい道に導いてくれることを期待しています。私を信じて下さい、ホシツリアブ

はよく観察する価値があります。

セナンクで集めたものには注意してください。ヴォークリューズの将来の植物相を

考える上で、貴重な情報があるかもしれません。

あなたの献身的な友人

セリニャン、1880年6月29日

 

原文注:

Vanessa cardui:Painted Lady、ヒメアカタテハ、世界に分布。幼虫はキク科を食す。

Bombyx processionea:カシノギョウレツケムシ

Bombyx pityocampa:マツノギョウレツケムシ

(原文ではいずれも正式名と異なるボンビックスが付いている。Bombyx はフランス

では曖昧な言い方でカイコという意味だけでなく、鱗翅目のいくつかの種を含む)

Anthrax:ホシツリアブ、昆虫記第三巻上参照。第三巻は書簡の6年後に刊行された。

Anthophores:ホシツリアブの章で最も原文に近い昆虫名の Anthophorea plumipes

ケアシスジハナバチを訳に選んだ。

Sénanque:アヴィニョンから東に直線25㎞程、修道院が有名。

奇妙なパズル:意味がよく分からないが、カルパントラではケアシスジハナバチの

古い坑道に巣を造るミツカドツツハナバチに寄生するユキゲホシツリアブを観察対象

にしていたが、ホシツリアブが幼虫をどのようにツツハナバチに寄生させるのか、

まだよく分からず懸案事項だったということだろうか。

観察のためセリニャンからカルパントラの切り通しのあるレーグまで再度行ったと

ある(昆虫記第三巻11章参照)。書簡からドヴィヤリオにも観察を依頼したようだが

実っていれば同章に彼の名を載せていたはずで、ファーブルはカルパントラを再訪し

やはり自分の眼で解決しようとしたのだろう。カルパントラまで直線でも15kmある。

セリニャンに居を構え、庭と実験室だけで研究を行っていたのでなく、必要なら遠方

であっても出かけていたのである。それにしても、ドヴィヤリオも仕事をしながら

昆虫観察を継続していて、博物学に強い興味を持っていたことが分かる。高校時代に

ファーブル先生から受けた影響はよほど大きかったようだ。