昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

アルベール・ヴェシエール

確定申告に手間取り、コロナの流行にあたふたし、映像を通してだが人間の愚かさを

見せつけられるに至っては、人間とはやはり救われないものなのかと、小生の抑鬱

気分はますます強くなってしまった。ただ、ひとりで落ち込んでいても何が変わる

わけでもなく、何か進展するわけでもない。せめてブログくらいは少しずつ進め

ようと、やっとポジティブな方向へ考えが向いてきているので、状態はまだ良い方

なのかもしれない。

 

さて、ファーブルのアヴィニョン時代に、フィールドワークを一緒に行い親しくして

いた生徒の中で、ドヴィヤリオらと共に名前の挙がるのがアルベール・ヴェシエール

(Albert Vayssière 1854~1942) である。彼は後にマルセイユ大学理学部の動物学教授に

なり、ファーブルが成し遂げられなかった教授職に就き、これを職業に選んだという

点では、生徒らの中でも最もファーブルの意思を継いだ出世頭の一人と言える。

ルグロ博士の「ファーブル伝」では、第4章アヴィニョン時代でその名前が出てくる

のだが、簡単な肩書程度しか説明されていないので少し補足しておきたい。

 

ヴェシエールにはポール(1889~1984) という息子が後に誕生することになるのだが、

ファーブルの生誕150周年を記念して、彼が父親であるアルベールを回想した文章が

残されており興味深い。ヴェシエールの書簡などの資料は乏しく、パリ自然史博物館

に5通所蔵されてはいるが、いずれもファーブル関連ではないため、このポールの話

はファーブルとの関係性がうかがえて貴重である。

ちなみにこのポールもまた非常に優秀だったようで、熱帯農業昆虫学の研究や総合的

病害虫管理の提唱者として知られ、後に国立自然史博物館名誉教授となっている。

1888年にファーブルの息子の方のポールが一年早く生まれているので、まさか師匠の

子の名からあやかったのではないとは思うがどうだろうか。ポールという名前はよく

ある名だから単なる偶然かもしれない。しかし、ヴェシエールの子供は他に二人の

男子がいて、将校になったジャン、医学部教授になったエミールだが、ファーブルの

名前ジャンとファーブルの最初の結婚の際の息子エミールからそれぞれ名をもらった

のではないだろうかと、小生などは疑ってしまう。

もしその通りなら、心からファーブルを慕っていたということになる。

 

元々はファーブルがコルシカから本土復帰後にリセの物理学助教授をしていた時に、

生徒だったヴェシエールは何かの試料を持ってファーブルを訪れたという。持参した

ものが化石なのか昆虫か植物かは分からないが、ファーブルが博物学にも相当詳しい

ということが生徒に十分知られていたということだろう。この時のファーブル先生は

非常に彼を歓迎し、その歓迎ぶりに後押しされ何度も彼はファーブル先生に会いに

行ったのだそうだ。博物学に興味を持ちわざわざ質問をしにやってくるような有能な

生徒をきっとファーブルは好んだはずで、大いな熱意を持って快く応対したことは

容易に想像できる。またこの際に知り合ったファーブルのアマチュア研究仲間の一人

にレナール=レスピナス(1833~?) という人がおり(仲買人や判事の肩書を持つ)、その

娘であるクレール(1866~?) が後にヴェシエールの妻となっているので、ファーブルが

間接的に二人を仲介したとも言える。

 

クレールの両親がドローム県の小さな村ブッシェ(Bouchet)に住んでおり、一家は1907

年まで夏の間そこで過ごしていた。セリニャンまで十数キロとかなりあるのだが、

ヴェシエールは毎年ファーブルを訪ねている。ファーブルはアヴィニョン時代の生徒

だった彼に対して、科学者としてのキャリアに常に愛情を持って接してくれて、最初

からこの道に進むよう勧めてくれたのだそうだ。おそらく博物学者の資質を彼の中に

見出していたのだろう。ファーブルの二度目の結婚で生まれたポール、ポリーヌ、

アンナらはヴェシエールの息子ポールと同年代であったので、仲が良くとても親密に

しており家族ぐるみの付き合いだった。

 

ヴェシエールの経歴は、1873年マルセイユ理学部の動物学教室に実験助手として

入り、1884年に比較解剖学講師、1895年に助教授、1898年に教授となり、1942年に

逝去するまで研究室に所属した。この間、市の要請でアンドゥームに海事研究所附属

施設が設置された影響で、海洋生物の研究を行っている。1882年に博士号取得。

ただし、息子のポールによるとヴェシエールは体が強い方でなく、研究材料を得る

ための航海に参加することはなく、マルセイユ湾の東と西の地中海沿岸で採集活動を

行っていたということだ。1898年からはプロヴァンス地方の植物や食料を襲う昆虫の

問題を解決するために、農業動物学の講座を開き、1921年に一般動物学の講座を担当

し、アンドゥーム研究所の所長にも就任している。ヴェシエールの業績を挙げれば

きりがないのだが、師ファーブル同様、その一生を研究に捧げたと言ってよいと思わ

れる。

 

唯一、彼のバイオグラフィーの中で小生が気になるのは、逝去した原因である。

調べた範囲では1942年1月13日が没年になっており、失踪とだけ記載されている。

1854年7月生まれなので87歳とかなり高齢の身だが、当時は第二次世界大戦中だ。

迫るドイツ軍や戦争そのものに嫌気が差して悲観してしまったのだろうか?

実際、1942年の11月に南仏もまたドイツに占領されている。失踪とは行方不明という

ことで、発見はされなかったが、やはり自ら師ファーブルの元へ旅立った可能性が最

も高いということなのだろう。

ファーブルよりも先に旅立った、コルシカ時代の生徒レヌッチ、アヴィニョン時代の

生徒ドヴィヤリオらと同様、ヴェシエールもまたファーブルの固く信じた魂の世界に

行けたのだろうか。若き日にフィールドワークをしてあの一番楽しかった学生時代の

思い出を、彼らがそこでファーブルと語り合っているものと小生は信じたい。

 

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ヴェシエール、年代不詳(1918年64歳頃?)、マルセイユの研究室。

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1882年博士号論文、上部にヴェシエール献呈サイン、右はその図版の一部。

ミルヌ=エドワールが審査責任者なのはファーブルの論文と同じで、ファーブル同様

パリ理学部に提出された。カゲロウの幼虫の各器官について研究した内容。

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ヴェシエールの著作に、無脊椎動物の比較解剖アトラス、1888年出版がある。

頭足類、昆虫、クモなど大部のものでそれぞれに詳しい解剖図が付いており、多足類

の部分ではファーブルの博士論文がしっかり引用されているのはさすがである。

上図は甲虫の部分、右上第11図(コフキコガネ)で神経節が胸に存在することが分かり、

ファーブルも言及したブランシャール(昆虫記第一巻5章参照)の神経節に関する研究に

ついてヴェシエールも引用している。