昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ファーブルの神

ファーブルの宗教観についてはずいぶん前から考えている。

キリスト教徒ではないのでないか?ということは以前から言われているが、

はっきりと断言しているものを見たことがないので興味を持つようになった。

 

宗教観は極めて個人的なものなので周囲がとやかく言うことでないし、

ファーブル自身も書き残しているものが非常に少ないので、誰もはっきりと

したことを確信を持って言えないのだろうと思う。

しかも言葉尻を捉えれば、どのようにも解釈が可能な言い方をファーブルは

するので、それが混乱させる原因となっている。

残された乏しい資料から類推して、ファーブルの宗教観について言及するには

小生では力不足なのだが、ファーブルの別の面にも光を当てるのがこのブログ

の大きな目的であるので、小生なりに考えたことを書いておきたいと思う。

 

当ブログでも時々触れてきたが、ファーブルまたは周囲の人たちが残してきた

話を参考にして推測するしかない。

ファーブルの宗教に興味を持ってから現在まで関連する資料を掘り起こし、

残された未刊の原稿なども収集してきたが充分とはとても言えないのが残念だ。

しかし、未知の部分があるというのは将来に楽しみを残しているとも言えるので、

今後も資料を探し続けたいと考えている。

 

ファーブルの晩年に傍にいることを許された作家のドルサン女史の記事によると、

神についてファーブルは興味深いことを女史との会話の中で話している。

 

「私はね、神を信じてはいないのだよ」と高名な学者はもったいぶって告白した。

「信じるというのは、意志の努力を想定している。私は神を信じない、なぜなら

私はあらゆるもの、あらゆるところに神を見い出しているからね。」

「他の者は、先生、あなたほどの立派な誠実さを持ってはいないのです。」と

私は敢えて口にした。

「それは愚か者なのだよ」と昆虫学者は鼻で笑うがごとく切って捨てた。

またある日、別の形で先生は私に自らの固く深い信念を示した。

「神は光なのだよ」と、彼は考え込んで言った。

「そしてあなたはいつも神が輝くのをご覧になっている…」

「いや」、とファーブルは不意に遮った。

「いや、神は輝かない。神は不可欠なものなのだ…。」

 

ファーブルが自身の信仰について述べているのだが、なかなか小生には理解する

のが難しいのでずっと解釈に困っている。

「信じるというのは、意志の努力を想定している」とはどういうことだろうか?

”信じる” というのは "信ずるよう努力している" という行為であると、そういう

意味を言下に含んでいるとファーブルは言っているのだろうか?

神の御業としか思えない生き物、自然などを身近に見てきたファーブルにとって

”神を信じる”という努力などは必要ない。神の存在は普通の事、当然の事である

ということを言っているようだ。

ファーブル流に言うと、信ずる努力をしているようでは ”信じていない” という

物言いになるらしい。

信じるという努力などは必要無いし、していない=(省略して) 信じていない、

という意味だと小生は今のところ解釈している。

したがってここでの "信じていない" は、我々が一般的に使うような意味での

神を信仰していないということではない。

 

「なぜなら私はあらゆるもの、あらゆるところに神を見い出しているからね」

この言葉は普通に考えると、日本人にも馴染みのある八百万(やおよろず)の神

に通じる汎神論の考え方である。

実際に何か見えていたのか、それともファーブルが見てきた多くの生物のあまりの

精緻さの中に神の御業としか思えないものを間接的に感じ取っていたのかどうかは

わからない。ただ日本の八百万の神のようにそれぞれのものに宿っている別々の

神々を言っているようには思えない。

神としては一者と捉えているようで、神をあちこちに感じているが、それぞれ別々

の多数の神々、いわゆる多神教ではないように思う。

 

「あなたほどの立派な誠実さを持ってはいないのです」に対して、

「それは愚か者なのだよ」とファーブルは返している。

これも解りにくい。ファーブル先生の様には見えない、感じられないのです、

と女史は言いたいのか?

”愚か者” とファーブルが言ったのは、これだけの自然を目の前にして感じ取れない

方がどうかしている、とでもファーブルは言いたげである。

純粋な心と眼を持っているなら解るはずだよと、言っているようだ。

 

「神は光なのだよ」

「そしてあなたは神が輝くのをご覧になっている」

「いや、神は輝かない。神は不可欠なものなのだ」

 これも解釈が難しい。

神は光だ、というのは太陽の光のように常に変わらず我々を照らし包む存在である

ということか。

では輝かないというのはどういうことか?

光だけを意味しているのでないのだと。自然を含め我々を包むすべてのものが

神である、輝いているものだけということでないよと、言っているように聞こえる。

そしてその存在は我々にとってなくてはならないものであるのだと。

 

神は光であるとか、あちこちに感じるというのは取りようによってはキリスト教

の考え方にも似ているので誤解を生じる。

確かにキリスト教一神教だが汎神論ではない。神=自然ではなく超自然的であり、

人格神であって奇跡も起こす存在をファーブルは考えていない。

したがってキリスト教とは大きく異なるのだが、全く否定していたわけでもない。

聖書も読んでいたし気に入った使徒もおり、同時代に生きていたら会いたかった

ということも述べている。

ただ信仰が異なるというだけなのである。

 

晩年、ラッティ大司教が訪問したあとのファーブルの言葉が残されている。

「司教は、私の学者としての知力をキリスト教徒の魂に変えるために、神への祈り

を止めないだろう。」

「私は学者であり、自然科学者としての自分の考えで、自分なりに信仰の慰めを

認めている。お互いに学ぶことがあるには違いないが、しかし、思考の不一致は

避けがたいことだ。」

 

前にも述べたが、ファーブルの神の概念はスピノザの汎神論に近い。

人格神でない一神教で汎神論、神即自然という考え方だ。

ただスピノザを愛読したという話は伝わってない。

一方で、ファーブルの墓石の側面にはセネカの言葉が彫られている。

セネカストア派に分類されるが、ストア派の考え方もまた汎神論である。

ファーブルがもしストア派に強く影響を受けていたとすれば、神=自然で、接して

いる自然そのものを含め神と捉えていたはずである。

似ていると言ったスピノザストア派から影響を受けているので、

ファーブルの宗教観は元をたどればストア派に行きつくのかもしれない。

セネカの言葉を墓石に刻んでいるのだからその方が素直な考え方である。

 

セネカの碑文はファーブル自身の信仰の告白であって、私はストア派ですよ、

と言っているのかもしれない。

ただ、こういったファーブルの神の概念は、それまでの厳しい人生を送る中で、

昆虫や自然と濃密に接していくうちに、醸成されていったのではないかと小生は

考えている。

 

昆虫記第6巻では、ファーブル少年が太陽の輝きを口で感じるのか眼で感じるのか

実験する話が出てくる。何を当たり前の事を言っているのかとツッコみたくなる

のだが、こんな感受性と探究心を幼い頃からずっと持ち続けていたのがファーブル

先生なのだ。鋭敏な感性から独特な宗教観が育まれても何ら不思議はないはずで

ある。

 

(追記)

ファーブルの墓石上部のシンボルについて前にブログで述べた ( Draped Urn ) 。

壺型のシンボルは古代ギリシャ、ローマで盛んに作られた陶器を模している。

これは古典文学が好きで原文も読めたファーブル先生の嗜好に一致しているし、

ストア派に影響を受けたのなら自身の宗教観に合致したオブジェである。

そして壺型の大きな置物はアルマスの庭にも飾られている。

 

注:

ストア派ーゼノンが創設した哲学一派 紀元前312~2世紀 前中後期に分かれる。

セネカー紀元前4~後65年頃 ローマ後期ストア派哲学者 ネロの命で自死した。

スピノザー1632~77年 オランダの哲学者 聖書解釈の違いでユダヤ教から破門

     されている。

 

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昆虫記第6巻3章 私の家系 冒頭部分原稿

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同3章 太陽の輝きの実験部分原稿

 

  

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

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完訳 ファーブル昆虫記  第6巻 上

完訳 ファーブル昆虫記 第6巻 上