昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ナヤノヌリハナバチの帰巣実験

ファーブルの書いた昆虫記にはいろいろな実験や観察が出てくる。19世紀当時には

あまり行われていなかった動物行動学と言うべきものである。ファーブルの研究対象

が主に昆虫なので、小生はファーブルを昆虫学者と言わせてもらっているが、本来は

昆虫行動学者と言うべきなのかもしれない。彼が書いた昆虫記には自身のバイオグラ

フィーなども書いてあるが、主に昆虫行動学の観察記録であり、そして当時最も話題

になったダーウィンの進化論に対する反駁の書である。

 

昆虫記第二巻、これは初版発行当時は「新昆虫記」の名で出版されたが、この中の

第7番目に "ナヤノヌリハナバチの新しい研究" という章がある。ファーブルは好き

なのだが昆虫に詳しいとはとても言えない小生には、ナヤノヌリハナバチと聞いても

ピンと来ない。はたして昆虫記邦訳では昔からこの名前が使われていたのだろうか?

試しに叢文閣版の昆虫記を見てみたが、ヌリハナバチではなく左官蜂とかラテン名の

カリコドマ (Chalicodoma) と訳されていた。アルス版は "さかんばち" 、ついでに岩波

版の方を確認すると、こちらは "ぬりはなばち" となっていた。

岩波版は古川先生だったか、専門家が昆虫名の訳を手伝ったはずなので、叢文閣版、

アルス版のようなあいまいさはない。

 

ナヤノヌリハナバチはラテン名が Megachile pyrenaica で現在は Chalicodomaではなく

Megachile という名を冠している。Megachile が付いたハチは日本にもいるが、これら

はみなハキリバチという名がついている。したがってナヤノヌリハナバチのラテン名

の方をそのまま訳すと、ピレネーハキリバチということになる。

ハキリバチはハナバチの中に含まれるが、葉っぱを切って巣の材料にするところが

名の由来である。ただ、ハキリバチでも葉ではなく樹脂や泥などを使うものがいて、

これらをハキリバチというのもおかしいので、塗花蜂 (ヌリハナバチ) と名付けたよう

だ。したがって和名はピレネーヌリハナバチが正確なのかもしれないが、これは納屋

に巣を造るところから、ファーブルがナヤノヌリハナバチと名付けたのである。

この経緯は昆虫記第二巻でファーブル自身が注を入れているが、ピレネーという地方

名を入れなかったのは、そこではこのハチが決して多く観察されないからという理由

である。

 

さてファーブル先生は昆虫記第二巻7章で、ダーウィンから依頼されていた帰巣性の

実験をこのハチを使って行なう。巣から数キロ離れたところまで印をつけたハチを

移動させて放し帰って来れるか観察したり、時に入れ物にハチを入れ振り回したり、

森の中で放してみたりとハチたちを迷わせるような方法をやってみるのだが、結果は

かなりの確率で巣に戻ってきたというものだった。この帰巣性を本能と言ってしまえ

ばそれまでだが、行ったことがない場所で放してもかなり戻ってくるのだから不思議

というしかない。しかし、本能と言って片づけるだけでは分かりませんと言っている

に過ぎないので、最近はあまり本能という言葉自体が使われない傾向だという。

それにしても、なぜハチは巣に戻ってこれるのか?他にも、なぜ鮭は生まれた河に来

て産卵するのか?犬や猫が遠い所から飼い主の元へ戻ってくる例があるのはなぜか?

など、帰巣本能と呼ぶ先天的な能力は挙げればきりがない。

 

小生はこの帰巣性について何の知識もなかったので、桑原万寿太郎先生の著作を

いくつか読んでみた(帰巣本能 その神秘性の追求 昭和45年 日本放送出版協会

動物と太陽コンパス 岩波新書 1963年)。

ミツバチの帰巣本能についても触れられていたが、どうもハチは体内時計を有して

おり、さらに太陽の位置をコンパスとして巣の方向など知るとのことである。

これらは生まれ持った能力及び学習によるのだが、何だか分からないがとにかく本能

だ、生来持っている能力だと片付けてしまうより理解しやすいように思える。

8Kmくらいが巣に帰る距離的限界のようでそれ以上になると困難になるという。

 

ミツバチは定位飛行という巣に頭を向けて巣の周りを上下にホバリングすることで、

位置確認が成立するのだという。定位飛行の様子はよく動画サイトにアップされて

いるので参考になる。定位飛行が済んでいるハチなら、知らない場所に連れてこら

れても太陽の位置と体内時計による太陽位置の補正から巣の方向を確認し帰巣できる

ようだ。では曇りの日はどうなるのかと思ったが、ハチは紫外線を感じるのでその量

がやや多い場所を太陽の位置とわかるらしい。また、小生にはピンと来ないのだが、

空の光は空気中の粒子などにぶつかり反射するが、これを偏光というようで、つまり

太陽からの距離で偏光の強弱、分布が違うため、空の一部を見れば太陽との位置関係

が分かるということだ。偏光を感受する眼を持っているということで、進化論的に

言うと、たかが曇り程度の天気で巣に戻れないようでは生き残れるはずもなく、偏光

を感じ取れるような連中が自然選択されてきたということになるかもしれない。

 

さて、昆虫記第二巻7章の終わりの方で、ダーウィンがさらに追加してファーブルに

ハチの実験依頼をしたという部分がある。ハチが地磁気を感じて帰巣に利用していれ

ば、磁力を帯びた針を取り付ければ戸惑い戻ってこれないのではないかという話だ。

これはハチでは今も否定的なようだが、伝書鳩などは地磁気を利用しているという

研究があり、さすが鳩に詳しいダーウィンと言うべきで、この実験方法は鳩から思い

ついたのかもしれない。

 

ハチの帰巣は8Kmあたりが限界だが、 ファーブルのハチの帰巣実験はみな3~4Km

程度の距離なので、この距離なら位置確認は可能でハチはどこでどのように工夫して

放されても巣には戻って来れるということになる。ファーブルは昆虫学だけでなく

太陽の動きや天体の話も科学的啓蒙書に書いており、ハチの帰巣性について太陽の

位置との関連などは、すぐにでも思いつきそうなのだが言及していない。

幼少期にファーブルは、太陽の光は目で感じるのか、口で感じるのか自問し、自身で

試していた有名なくだりが昆虫記にあるのだが(昆虫記第六巻3章)、太陽コンパス

が帰巣に利用されているというのは、逆に簡単すぎて盲点だったのだろうか?

昆虫記第二巻7章冒頭部分の原稿。

校正の書き込みと1882年9月11日の印あり、第二巻初版の刊行は同年12月12日。

何度やり取りされ印刷にまわるのか分からないが、この原稿から刊行までに3ヶ月を

要している。本文の上から4~5行目にはダーウィンの名が見える。