ルグロ博士は外科医でありながら政治家でもあり、ファーブルの門下に入って1913年
には「ファーブル伝」を刊行している。また、ファーブルの終の棲家であるアルマス
の保全に尽力したとされていて、ファーブルが後世に伝えられるにあたって、重要な
仕事をされた方である。ファーブルは彼を弟子と呼んでおり、自身が書くはずだった
回想記を博士が代わりに書いてくれたことになる。
ファーブルの伝記を書くにあたって、高齢のファーブルから根掘り葉掘り聞きだす
のは限界があり、親戚や友人、その家族などからも情報をもらい裏付けも取って活字
にしたようだ。
ボルドーヌ医師はアヴィニョン時代のファーブルの生徒であり、晩年までその交流が
続いていたから、彼にいろいろと聞くのは当然だと思われる。二人とも同じ外科医だ
が、ボルドーヌの方が博士よりひと回り以上年長である。
他にもドヴィヤリオのインタビューが取れていれば、進化論に関する点で、また違っ
たファーブル伝になったかもしれない。1911年では彼は既に他界していたが、さすが
ルグロ博士で、夫人の方から聞き取りを行っている(ファーブル伝まえがき参照)。
ただ、ファーブルとの関係性において、ドヴィヤリオ自身でなければ分からないこと
は多々あったはずだから、ファーブルのバイオグラフィーに触れるうえで、彼の証言
が取れなかったことは極めて残念だと思われる。
以下にルグロ博士からボルドーヌへの書簡を掲載しておく。これはボルドーヌの一連
の資料の中に含まれていたものである。ルグロ博士自身については、述べなくては
ならないことがたくさんあるが、また別の機会に触れたいと考えている。
モントリシャール(ロワール=エ=シェール県)
1911年1月3日
親愛なる同僚へ
私の次の本「ジャン・アンリ・ファーブルの生涯」を近々お送りしたいと思っている
のですが、それを印刷する前に、いくつか追加情報が必要なのです。
少なくともあなたは以前から、”昆虫学的散策” を忠実に守ってきました。
それについて簡単な説明をお願いします。
時代は?(アヴィニョンでのことだったと思います)
曜日は?(木曜日だと思います)
学生?および昆虫愛好家?のおよその人数
この散策の面白さは?
ファーブルの態度は?
対象地域は?(アングルの台地など)
というのも、ファーブルは、この散策に同行した人々のうち、ドヴィヤリオとあなた
の二人の名前しか挙げることを許さなかったからです。短い文章にまとめなければ
ならないのですが、あなたの記憶を呼び起こして頂きたい。
シカール氏は、この偉大な人物の胸像を作ったばかりです。胸像というより、半分は
立像です。次の展覧会で落成を待つ間、この胸像を鑑賞することができるでしょう。
大衆の堕落や人間の欲望から遠く離れたアルマスが最適だと思いませんか?
私たちはシカールと共に、セリニャンで素晴らしい八日間を過ごし、あなたの素晴ら
しいフロンティニャンワインを味わったところです。
私から20本、次の住所に送ってあげてくれませんか。
シカール(フランソワ)
彫像製作者
アルマイエ通り18
パサージュ・ドワジー 7
パリ
すでに本人から注文を受けている場合を除き、同封のカードを入れて下さい。
私の良き思い出、親愛なる同僚よ、1912年に幸多かれと祈りつつ。
敬具
G. ルグロ
ワイン、送料、梱包料、すべて私の負担です。
注:
モントリシャール;パリ南西に120㎞ほど、ルグロ博士在住、1940年同地にて没。
ジャン・アンリ・ファーブルの生涯;ファーブル伝、45部までが限定本、1番本を持
っているがナンバー以外の違いが分からない。使用の紙が異なるとの記載がある。
promenades entomologiques;昆虫学的散策、昆虫学散歩、良い訳が思いつかない、
スカラベの観察などのため生徒らと出かけていた昆虫観察行。
昆虫愛好家;生徒たちだけでなく、アマチュアの人たちも同行したようだ。
シカール;前回ブログでシャルパンティエの制作風景として言及した写真は、
シカールらしい(別の洋書で確認済み)。ルグロ博士が真ん中に居てファーブルに
何か聞いているのは、伝記のためのインタビューか。製作者の横顔は確かにシカール
の方に似ている。
アルマイエ通り…;地図で探してみたが、同住所はパリの凱旋門から北西に400mの
ところで、広い庭が内側にある立派な建物が残っている。
ルグロ博士からボルドーヌへの書簡。博士独特の書体。
同書簡、裏面。右下にルグロ博士のサイン。