昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

エルツェン教授への反論ードヴィヤリオ(続)

ファーブル氏は確かに観察の専門家であり、科学的手法にも精通しています。彼は、

帰納的な方法を誇張することで、どのような間違いを犯すかを知っています。

さて、いくつかの孤立した事実から一般化に反する結論を出すことは、自分自身を

一般化することではありません。不可能性によって物体の落下の法則の例外を指摘し

この一般的な法則に異議を唱えることは大胆でも非合理的でもありません。

彼は一般化しているのではなく、一般化を否定しているだけなのです。

これはファーブル氏の立場です。進化論者であるあなた方は、本能とは遺伝的な習慣

に過ぎないと主張するのでしょうか?私は、本能が習慣に由来するものではなく、

遺伝によって伝わらない場合と対比しているのです。最初のアラメジガバチの行動を

参考にして下さい。

多かれ少なかれ妥当な仮説によって解釈された他の事実が、あなたの理論に信憑性を

与えるかどうかを疑う必要はありません。あなたの理論は、同じ種類の全ての事実に

答えていないので、私はあなたの理論を拒否します。

ダーウィンは、特に微妙な点で彼の教義と一致しないこれらの事実を、エルツェン氏

よりも低く評価しました。彼の関心はファーブル氏に彼が決めた条件でヌリハナバチ

の実験を再開するよう勧める書簡を送ったことに表れています。「新昆虫記」に記録

されたこれらの実験は、ダーウィンが期待したような結果をもたらしませんでした。

ファーブル氏が認めている知性と本能の絶対的な区別は、ファーブル氏にとって、

人間以下の全動物界には理性のきらめきも痕跡も見られないという結果を意味するの

でしょうか。全くそうではありません。彼はそれを明示的に進めていますか?全く進

めていません。エルツェン氏は、ファーブル氏が本能の中に理性の芽を見出そうとし

ないことを利用して、この点についての意見を彼に帰し、自分を一般化したように思

えるのです。2つの能力を根本的に、そして本来的に異なるものと考え、それらが同じ

個人の中に共存していることを認識することは十分に可能です。それに、それは問題

ではありません。ファーブル氏は、昆虫の知的な表現に反対しています。

彼はそれ以上のことはしません。動物学上の階級のこのカテゴリーを超えることは

ありません。彼は観察し、推論します。自分でトレースした限られたフィールドの中

で、一般的な理論に反する現象に遭遇した場合、その現象を強調し、その理論に対し

てその意義を全面的に主張します。しかし、ある仮説を別の仮説に置き換えることは

しません。

同じように、一般論を押し付けないように気をつけていますが、もしそれが許される

ならば、想像力を駆使して、夢のような話になってしまいます。

順番がどうであれ、問題の議論に余計なデータが介入することを許さない、この確か

な方法をすべての学者が守っているわけではありません。

エルツェン氏は、理論を採用する際には、孤立した事実から導き出された主要な反論

にもひるまないのかもしれません。彼を決定づけているのは、統合の魅惑的な側面で

あるようです。少なくとも人はそう考えるでしょう。

"ダーウィニズムが本能と理性の起源、発達、そして現在の状態を説明するかどうかは

別問題で、その説明は不十分かもしれません。しかし、もしダーウィニストが時折、

事実を強要することがあるとすれば...." という彼の発言から判断すると、ダーウィニ

ズムに彼は半分しか満足していないように思えます。そう、この後、エルツェン氏は

進化論の誘惑に立ち向かうことになりそうです。彼は勘違いしています。彼はその

仮説を採用するだけでなく、その結果を科学が越えられない、あるいは到達できない

限界を超えて拡張します。

エルツェン氏によれば、理性とは、漠然とした曖昧な理性、言ってみれば無意識の

理性であり、すべての本能の基礎となるものです。下等生物では、その存在条件に

見事に適合した本能という形でほぼ独占的に現れます。高等生物になると、理性が

本能からより解放され、精神現象により直接的に介入するようになります。本能と

理性は種によって反比例しており、一方が優位に立つと他方が消されてしまうほど

です。後者はキュビエの学派が支持していたものです。

しかし、エルツェン氏の思想を独創的なものにしているのは、彼が理性の将来の運命

を予感しているからです。本能の安全性とその生活上の必要性への充当により、彼は

人間自身が、その知性の努力と試練によって、理性の活動自体を無意味にするような

固定された本能の総体を獲得することに成功し、その結果、批判、連想、ひいては

精神的自由という危険な特権から解放されるという、パラダイス的な時代を予見して

います。原始的な特性を持つ知性は、例外的な状況や不測の事態が発生した場合に

のみ行動します。普通の人生であれば、疑いの苦悩や仕事の悩みを解消してくれる

無謬のガイドを手に入れることができるでしょう。彼は、消化しながら計算し、眠り

ながら哲学するでしょう。もしもアラメジガバチが完璧な解剖学と生理学の例を与え

てくれるならば、未来の科学者たち、研究も資格もなく、ビシャやデュピュイトラン

が夢にも思わなかった理想を実現してくれる術者や臨床医たちに期待しない手はない

でしょう。航海士はコロンブスやマゼランをはるかにしのぐ、ツツハナバチの本能を

持った人類を提供してくれるでしょう。そして、本能の一般化は、現在の私たちの心

の一般化をどれほど無意味なものにすることでしょう。

本能と理性の問題は解決しないのか?そう言えば落胆してしまいます。ダーウィン

示した道は、おそらく道でしかなく、おそらく方向性でしかありません。

彼の功績はそれに劣らず偉大であり、将来の解決策がどうであれ、彼は生命の研究に

密接に関連する問題を形而上学の領域から科学の領域に移した最初の人物です。

H. ドヴィヤリオ

注)

キュビエ:フランスの動物学者、種は不変で天変地異により新種が出現すると主張。

ビシャ:Bichat、18世紀フランスの解剖学者。

デュピュイトラン:Dupuytren、18~19世紀フランスの解剖学者、外科医。

マゼラン:16世紀ポルトガル出身の探検家。率いたスペインの艦隊は世界一周した。

 

ファーブルに絡んだエルツェン教授に対して、ドヴィヤリオは冷静に反論している。

うまく読み取れなかった部分もあるが、教授の書簡に比べればずっと分かりやすい。

ファーブルの生徒であり、研究の協力者であり、さらに本人に代わってきちんと反論

までしてくれるような人物は他にはいない。ドヴィヤリオがもし長生きしていれば、

ファーブルの晩年ももう少し明るい気分でいられたのではないかと思う。

エルツェン教授については小生は最近まで知らなかったが、他にもファーブルに批判

的だった人々は何人かいた。彼らについて、今ではほとんど紹介されることがないの

だが、小生は彼らがどういった主張をしていたのか、またどういった背景があったの

か興味があるので、機会があればまた紹介していきたいと考えている。