昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

エルツェン教授への反論ードヴィヤリオ

エルツェン教授からファーブルへの書簡に対し、ドヴィヤリオはファーブルに代わり

反論の投稿を行なっている。1883年の科学レヴュ―という雑誌で、やはり心理学の

テーマ部分である。なかなかドヴィヤリオの文章は見つけられないので、参考のため

紹介しておきたい。

知性と本能

知性と本能の関係は、科学がまだ解明できていない謎であり、おそらくすぐに解決

出来ないでしょう。精神現象は二つの異なる能力から生じているのか、それとも、

一つの同じ能力が多様に、時には矛盾する形で現われているだけなのか。そんな疑問

が湧いてきます。最初の仮説が最も古く、二番目の仮説は進化論者によって支持され

ある程度の権威を得ています。さらにこの第二の仮説が提示する代替案の側に立って

知性を唯一の運動因子と認め、本能を遺伝によって蓄積され固定された習慣の集合体

と認めることを躊躇しないのです。この独創的な理論は、現在観察されている多くの

事実を曲げ、後天的な習慣とは関係のない既知の事実とも衝突します。

ファーブル氏は、「新昆虫記」の中でこれらのいくつかを指摘し、もちろん進化論者

の教義に反対しています。ファーブル氏の過去の研究は、ダーウィン自身を魅了し、

ダーウィンは嫌がらずに追加の情報を求めたことを付け加えておきます。

「新昆虫記」には、イギリスの偉大な博物学者の指示で行われた実験の結果が掲載

されています。

ファーブル氏の本能に関する結論を題材にして、エルツェン氏が最近、本誌に「本能

と理性」に関する論文を発表しました。エルツェン氏がどんなに礼儀正しい人であっ

ても、ファーブル氏が生理学者に対して言った簡単な冗談が彼を刺激し、ユーモアの

欠片を避けることができませんでしたが、これは非常に残念なことです。

特に残念なのは、ファーブル氏が間違った結論を導き出したとエルツェン氏が考えて

いるいくつかの観察結果を、彼は報告する必要がないと考えたことです。

そうでなければ彼の答えは、面白さも明快さも失っていなかったことでしょう。

まず、この欠陥を修復し、観察項目の中から選択してみましょう。

アラメジガバチは膜翅目で幼虫はかなり大きなイモムシを食べます。幼虫は新鮮な肉

しか食べられないので、手の届く範囲にある獲物は生きたままであることが必要です

が、わずかな動きでもジガバチの卵を危険にさらす可能性があるため、麻痺させて

おく必要があります。イモムシの完全な麻痺は、動物の体内に散在する9つの神経中枢

を損傷することで得られます。しかし、頸部神経節の病変は、死に至るほど深いもの

である必要はなく、一種のしびれ、すべての運動能力の停止をもたらすものであれば

十分です。

解剖学者、生理学者であるジガバチは、驚くべき安全性と手際の良さで手術を行い、

獲物を捕らえると、それ以上でも以下でもなく9回針で刺します。迷いはありません。

神経中枢がやられ、残ったのは脳です。ここでは昆虫はもはや針の役割を果たさず、

その一撃は致命的です。身体を傷つけないように、虫の頭を噛んで圧力をかけて潰す

ことで、望ましい結果を得ることができます。

このような操作方法は、試行錯誤して身につけた習慣や遺伝によって固定されたもの

でないことは明らかです。ここでは、最初から企てや試みはなかったのかもしれませ

ん。幼虫の養育のために最初のイモムシを保存した最初のジガバチが、同じ信頼性と

同じ成功を収めた操作を実践する必要がありました。また、自分の幼虫がこのような

重要な宿主と同居するには、動けなくなるほどの危険性があることを予見しておく

必要がありました。最初のジガバチは、不器用な動きに系統全体の運命を賭けていた

のです。偶然がそうさせたのか、それとも知性がそうさせたのでしょうか。

偶然は、ジガバチにとって非常に有利なものだったのでしょう。実際には、操作を

成功させるために必要なのは一度だけではなく、将来の保証となるカップルを後に

残すために、最低でも2回連続して行う必要がありました。

ファーブル氏は、この幸運な偶然を認めると同時に、この昆虫に本当に奇跡的な知性

を与えることに同意しています。また、説明しようとはせず、わからないことを認め

ています。しかし、彼が理解しているのは、この本能は習慣、つまり、それ自体が

すでに素晴らしい行為の多かれ少なかれ頻繁な繰り返しからは生まれないということ

です。

別の膜翅目を使ってみましょう。

ハナバチ科のナヤノヌリハナバチは、その必要性と利用方法に比例しない、特別な旅

の才能を持っています。そのような状況で、環境を変えた後に巣に戻ることができる

のは、本能だけ、つまり盲目的な衝動で説明できることです。特にハトはその特権を

享受していることが知られています。

巣から取り出した昆虫は、見分けがつくように印をつけて箱に封入します。紐で固定

された箱は、実験者が投石器のように縦横無尽に振り回し、自分自身で回転させる

ことで囚われ者を混乱させます。解放する場所は巣から約3キロのところにあります。

そのために、実験者はまず反対方向に向かい、一定の距離で引き返し何度もルートを

通って目的の地点に向かいます。レースは1~2時間で終了。ご覧のように細心の注意

を払っており、通った経路を認識する可能性を排除するには十分です。もちろん、虫

を放す場所として選ばれたのは、四方に視界が遮られた一種の空き地であることは

言うまでもありません。最後に、スタート地点の方向とは逆の方向に向かって箱を開

けます。ハチの迷いは長くはありません。上昇して巣からまっすぐに飛び立ち、15分

から20分後には巣に到着します。もちろん、この実験には何匹ものハチが参加し、

何度も繰り返されます。迷子になったり、戻るのが遅かったりするのもいますが、

多くはすぐにスタート地点に戻ってきます。

ここで、知性の努力やひらめきを指摘することは困難です。また、伝達された習慣の

特権を行使することもできません。この巣に戻る能力は、昆虫の生活様式には不可欠

であり、この種がこの能力を発揮する必要に迫られたことで発達したに違いない、と

答えられるかもしれません。

しかし、第一に通常の巣への帰還は、ハチの動きが自由であること、場所の知識、

通った道の記憶、視覚による助けなど、実験対象のハチには欠けている手段によって

説明できます。さらに、この能力が遺伝によって固定された習慣と結びつくためには

同じ条件で行使されること、つまり、同じ出発点から同じ目的地に向かって蜂を誘導

することが必要です。例えば、パリからムランへ行く習慣が、ある種の生物に本能と

して固定化されることは考えられます。しかし、この本能は、たとえ2、3世代前から

バイヨンヌが彼らの本拠地であったと仮定しても、我々が知っている条件の下で、

その種の個体の一部が、ボルドーからバイヨンヌまで旅することを可能にするでしょ

うか?

同じように話題になっている他の作品の中から「新昆虫記」の2つの例を選んだのは、

詳細な検討が必要なく、時間もかからないからです。

ファーブル氏がすべての研究から導き出した結論は、以下の通りです。

  1. 知性と本能は本質的に異なる2つの能力である。
  2. 本能を知的能力の原理と見なすことはできない。
  3. 本能は、遺伝によって伝えられた習慣の蓄積から生じるものではない。

それ以上でもそれ以下でもない。

エルツェン氏はそこに何か別のものを見出しています:一般化の乱用と、動物の一連

の知的機能を否定していることです。(…続く)

注)

新昆虫記:昆虫記第二巻のこと。

アラメジガバチ:昆虫記第一巻14~15章、第二巻2~4章参照。

ナヤノヌリハナバチ:同第二巻7章参照。

ムラン:Melun、パリから直線で南東へ40㎞程度の都市、セーヌ川が通る。

ボルドー:フランス南西部の中心都市、西に40㎞程で北大西洋

バイヨンヌ:Bayonne、フランス南西部の都市。ボルドーから南西に150㎞ほど。

 

知性を感じさせるほど巧妙なハチの能力だが、進化論的に言えば、獲物をやたら刺し

ていたハチは子孫を残せず淘汰され、大人しく麻痺させられる場所を偶然刺していた

ハチが、年月をかけ徐々に選択され生き残っただけという、ドライな結果に過ぎない

かと思われる。また、ハチは生まれた後、獲物を刺しているうちに多少学習し、刺す

技術はより洗練されることはあるのかもしれないが、その学習部分は後世に遺伝され

るわけではない(獲得形質の遺伝は否定)。親と同じような場所を刺す行動をする

遺伝子を持つ子が生まれ生き残っていき、そして、親が学習により磨きをかけた部分

は受け継がないものの、その子には親と同等の学習のできる可能性を持つ遺伝子は受

け継いで生まれてくるということになる。

ハチの行動に現在どういう解釈がなされているのか小生は知らず勉強不足なのだが、

ハチの本能行動に知性を結び付けることはできなくても、学習能力が存在するなら、

その部分については観察者が知的なものを感じるのは当然のように思われる。

教授が指摘する本能以外の虫の行動について、ファーブルも同様の存在は認め昆虫記

に書いている。ただ、その知的能力とも取れる行動を、本能に無理にリンクさせず、

教授のような拡大解釈は避け、ただ観察した事実のみを述べるという、研究者として

のファーブルのルールを、ファーブル自身がかたく守っているだけなのである。