昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

カトリック教徒への道のり

ラッティ大司教の書簡が掲載された雑誌には、晩年のファーブルの逸話も

いくつか紹介されている。

やはりB.ドルサン女史の文から以下に引用する。

 

 ファーブルの容体が芳しくないとの知らせに、ラッティ猊下はアルマスを再訪

した。病人は猊下にその喜びと感謝を語った。かくてその信頼と好意を得たと悟った

からこそ、高位におわす聖職者は手紙をしたためたのである。

その手紙は、しばしば「セリニャンの隠者」と呼ばれる彼の考えと感情の方向性に

多大な影響を及ぼすこととなった。

 これらの手紙を拝読する光栄にあずかり、私はそれを公開するのが義務である

と考えた。その表現の優美さは言うに及ばず、猊下は老人の反発を受ける可能性が

ある言葉はことごとく避けつつ、しかしながら穏やかに、キリスト教徒として

死ぬ道へ彼を導くよう努めている。猊下がまず求めたのは、自らを祈りに結び

付けることだった。カルヴァリーの丘の祈り、頂上の祈り;ゴルゴタの頂上、

人生の頂上:「主よ、我が魂を御手に委ねます。」

 シスター・アドリエンヌが唱える今際の際のキリストの言葉に、最初ファーブル

は「アーメン」の響きを加えるだけだったが、最後には彼は自分自身でその全部を

唱えるようになった。

 しばらくして、猊下はさらに主祷文をつなげるよう勧めたが、大きな反発を

買ってしまった。シスターが「我らを誘惑に遭わすなかれ」の部分に達すると、

病人が口をはさんだ:「いいや、誘惑に惑わされないよう神に頼んだりしない。

だって、神はそんなことできないだろうからね!」

 唖然としたシスター・アドリエンヌが聖職者に報告すると、猊下は寛大さを

もって調整を図った。

 司教から手紙が届くごとに、アルマスではちょっとした騒ぎだった。

シスター・アドリエンヌはまずそれを読み、次にファーブルに読み聞かせる。

彼はとても注意深く聞き入り、それを体で感じてこう言うのだった、

「教えはきっちりした理詰めで出来ているし、何より文学的に素晴らしい。」

                               以上。

(p.s)

In manus tuas, Domine, commendo spiritum meum.

ルカによる福音書23章「イエスの死」部分、

新共同訳聖書では「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」 

 

主祷文:主の祈りはマタイによる福音書6章、ルカによる福音書11章に記載

エス自身がこう祈りなさいと教えたもの。

新共同訳聖書では

「天におられるわたしたちの父よ、

御名(みな)が崇められますように。

御国(みくに)が来ますように。

御心(みこころ)が行われますように、

 天におけるように地の上にも。

わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。

わたしたちの負い目を赦(ゆる)してください、

 わたしたちも自分に負い目のある人を

 赦しましたように。

わたしたちを誘惑に遭わせず、

 悪い者から救ってください。」

 

個人的なことで恐縮だが、小生はキリスト教を信仰しているわけではない。

キリスト者でない自分があれこれ書くのはどうかと常に思っている。

宗教的な言葉の解釈も不十分であり、読みにくい部分も多いかと思う。

ただ、今までファーブルについて書かれたもので、あまり宗教的な事を掘り下げた

文章が見当たらなかったので、ぜひ書き残しておきたいと感じて書いている。

ファーブルにとってカトリックとの関わりは大きな部分を占めていたと小生は

思っている。

 

小生は信仰はしていなかったが近くのカトリック系の幼稚園には通っていた。

体がめっぽう弱くよく休む子だったので一人も友達ができなかった。

わずかに覚えているのが主の祈りで、食事前に手を組んで声に出していた気がする。

「天にましますわれらの父よ……アーメン」という文言だったかもしれない。

 

上述のファーブル先生がシスターに噛みついた部分は、その主の祈りの最後の部分

である。イエス・キリストがこのように祈りなさいと言った文で、信仰のある人なら

最も基本的な馴染みあるもののはずだ。

これに噛みつくというのはどう考えても…

いかにファーブル先生が信仰していないかということではないだろうか?

 

「神に頼んだりしない、神はそんなことできないだろうから」という言葉は

アヴィニョンで苦汁の経験をしたファーブルだから言える言葉かもしれない。

それにしても、シスターが驚くのは無理もない、大司教はどうやって調節を図った

のだろうか?

 

更に「教えは理詰めで、文学的に素晴らしい」などのファーブルの言葉は、

迷いのない信者の方が言う言葉ではないように感じる。

信仰している人というより、かなり第三者的な目線ではないか?

こんな状況で残された時間も限られた中、大司教はいったいどのようにファーブルを

カトリック教徒として導いていくつもりだったのだろうか。

 

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雑誌「Le Noël」1265号掲載 ファーブル晩年のサイン(かなり弱々しい筆跡)