昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

大杉栄のこと(続)

何年前になるか忘れたが、都内の某古書店から大杉が扇子に書いた漢詩調の直筆もの

が出た。小生にはその書かれた内容はさっぱりわからなかったが、筆跡は本物である

ように見えたので、すぐ書店に連絡をしてタイミング良く入手することができた。

書かれた文は以下のようだ。

 

” 燭涙落時 民涙落 歌聲高處 怨聲高 "  大杉栄

内容が分からないのでしばらく放置しておいたが、何となく頭の隅で気になっていた

のか、思い出してはまた眺めるということを繰り返していた。

漢字の意味が分かりにくいが、燭涙(しょくるい)とは蝋燭から溶けて流れ落ちる涙

のような細い蝋のことらしい。最初の二行は、蝋燭が溶け落ちると民の涙も落ちると

言っている。

次の二行、歌声の高い所、怨みの声(えんせい)も高い。

これもよく分からないが、歌声高らかな所というのは、どうも大勢で賑やかに騒いで

歌でも歌っているのだろうか。そういう楽しげな所では怨みの声も大きくなるという

ことか。背景は不明だが、何だか穏やかな内容の詩ではなさそうだ。

小生的に解釈すると、酒池肉林(豪奢な酒宴)のような腐敗した為政者の贅沢三昧の

陰で、虐げられ泣いている一般民衆の気持ちを表現している気がする。

 盛大な宴で蝋も溶け流れている時に、貧しい民の涙もまた落ちていくのだ

 賑やかな歌声が高く響き渡るほど、人々の怨みの声は増していく

だいたいこんな意味合いだろうか…民衆の立場から役人を強く批判した詩のようだ。

 

調べてみると、大杉の作ではなく、東学党の党詩として同じ内容があった。

東学は1860年にできた宗教で、1894年(明治27年)には朝鮮半島の農民中心の政治的な

運動に発展した。大杉が9歳頃の話になるが、共鳴する部分があったのだろうか。

自主性と権力者の否定を感じたなら大杉のアナーキズムに合致するのかもしれない。

東学思想は小生には理解が難しい。東学史 東洋文庫174 平凡社によると、侍天主とい

う考えが主になるようだ。かなたの天を信じるのでなく自己の中にある天を信ぜよ、

天主が存在するとすればわれわれ自身のうちに存在するのだ、という思想である。

神は内在しているのだから、呪文を唱え修行することで一体になれる。そこには身分

の差などないという教え。厳しい生活環境、圧政がベースにあって誕生しているので

農民を中心に急速に広まったらしい。

 

東亜先覚志士記傳 上巻 原書房 昭和41年の15章 東学党蜂起の中では、当時東学党

党員が唱えた党詩として紹介されている。この党詩を高誦し、東学の神秘な呪文を

唱えつつ進んだ、との記載がある。

東学史 平凡社刊にはその呪文の文言も掲載されているが、呪うような言葉ではなく

東学の侍天主の教えを説いたもののようだ。もちろん日本人が聞いても理解できない

原文の発音で唱えていたのだろうから、神秘的に感じたのかもしれない。

ただ、詩の方は東学党以前からすでに一般の人々に広く親しまれていたものだった

ので、その批判的な内容が当時の抵抗運動にマッチし党員も口にしていただけだった

可能性はあると思う。(東亜先覚志士記傳以外で、この詩がはっきり東学党詩である

との記載は見つけられなかった)

 

詩が東学党以前から親しまれていたことについて、以下の書籍にあるので参照した。

東洋文庫409 パンソリ 平凡社刊 春香歌より。

 金樽の美人は千人の血にして、玉盤の佳肴は万姓の膏なり。

 燭涙落つる時、民の涙落ち、歌声高き処に寃声高し

春香伝 岩波文庫より。

 金樽の美酒は千人の血にして、玉盤の佳肴は萬姓の膏なり、

 燭涙落つる時民の涙落ち、歓聲高き處怨聲高し。

豪華な樽(きんそん)に満ちた美味しい酒は、多くの民衆の血税で入手したもの、

翡翠の皿の上の酒の肴(かこう)は、万民(ばんせい)の汗と脂である…

勝手に訳すとこんな感じか、原文は不明だが膏と高の文字は韻を踏んでいるようだ。

大杉の書いた扇面には、この後半部分のみが書かれている。

18世紀頃から朝鮮半島で口伝されていたこの歌は、当時の人々の気持ちを代弁して

いたのかずっと伝えられ、途中、春香伝のような作品として編集され人口に膾炙して

いた。この詩が19世紀になって東学党の党詩として、もし採用されていたとしても

詩の内容からは肯ける。

 

大杉が憲兵大日本帝国陸軍管轄で思想取締まりもしていた)らにより最後に捕まる

前に、根拠のない流言が噂されていた。大杉は外国の無政府党から金をもらって革命

を企てている、朝鮮人と謀議して政府機関の爆破をはかっている、などだ(諧調は偽

りなり 瀬戸内晴美著 文春文庫参照)。人々の噂を利用して逮捕したのか、それとも

逮捕側が流した噂なのか、又は噂を信じた暴漢が大杉を襲撃するようなことが起こる

ことを狙っていたのか、などとつい推測してしまう。

震災後いろんな噂がある中、大杉周囲の友人は大杉だけが無事で放置されていること

に不安を持っていて、彼の暢気さや大胆さを心配していたそうである(同書参照)。

 

大杉と朝鮮政治思想とのつながりの有無は分からない。しかしこの詩を大杉が書いて

いたこと自体は興味深いし、献呈した相手が誰だったのかは知りたいところだ。

春香伝という作品を単に大杉が好んでおりこの詩を選んだのか、それとも東学党の乱

のような政治運動の成立に、思想的に共感して書いたものだったのだろうか。

 

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大杉栄直筆の扇面額。縦15㎝、横は直線で50㎝。年代不明。

扇に何か書くというのは人に頼まれた時だろうが、由来や旧蔵者などが

わからないのは残念だ。

 

春香伝 (岩波文庫)

春香伝 (岩波文庫)

  • 発売日: 1956/07/25
  • メディア: 文庫
 

 

パンソリ (東洋文庫)

パンソリ (東洋文庫)

  • 作者:申在孝
  • 発売日: 1982/06/05
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 
 
東学史―朝鮮民衆運動の記録 (東洋文庫 (174))

東学史―朝鮮民衆運動の記録 (東洋文庫 (174))

  • 作者:呉 知泳
  • 発売日: 1970/11/01
  • メディア: 単行本
 

  

瀬戸内寂聴全集 (12)

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