前回のブログでルソーの「エミール」に触れた。ファーブルとも関連のありそうな
部分がまだあるのでもう少し触れておきたい。
「エミール」は小生には少々くどすぎるが、その第4編には作品の白眉といっても
よい「サヴォワ助任司祭の信仰告白」という長文が挿入されている。
ここにはルソー自身の宗教観などが語られており、その内容は非常に興味深い。
教え子エミールにそろそろ宗教について話す時期が来ているということで、この話
が挿入されたようだ。これはルソーの実体験にある程度基づいて書かれている。
人生につまずき救護院で拾ってもらったものの、嫌な事ばかりで挫折しかかったが、
あるカトリックの勤勉な司祭と出会い大いに救われるという話だ。
司祭は時にカトリックに重きを置かないことも言うのだが、ルソーは心を開き司祭も
またルソーに自分の行ってきたことを告白し、神や宗教観にまで言及する。
詳細はぜひ読んで頂きたいが、小生がとても気になった文章、感銘を受けた部分を
以下に列挙しておく。(エミール 中巻 岩波文庫 参照)
中にはファーブルも似たようなことを述べているものがあり興味深い。
運動の最初の原因は物質のうちにはない。生命のない物体は運動によってのみ動か
されるのであって、意志のないところにほんとうに行動といえるものは存在しない。
だからわたしは、何らかの意思が宇宙を動かし、自然に生命をあたえてるものと
信じる。
だからわたしは、世界は力づよい賢明なある意志によって支配されていると信じる。
わたしにはそれが見える。というより、それが感じられる。
それ自身が能動的な存在者、つまり、それがどういうものだろうと、宇宙を動かし、
万物に秩序をあたえている存在者、この存在者をわたしは神と呼ぶ。
わたしはいたるところでそのみわざによって神を認める。わたし自身のうちに神を
感じる。どちらをむいてもわたしのまわりには神が見える。
人間は、能動的で自由であるなら、自分から行動する。
人間が自由に行なうことはすべて摂理によってきめられた体系のなかには
はいらないし、摂理のせいにすることはできない。
神は、人間があたえられている自由を濫用して悪いことをするのを欲してはいない。
しかし神は、人間が悪いことをするのをさまたげないのだ。
神は、人間が自分で選択して、悪いことではなくよいことをするように、人間を
自由な者にしたのだ。
注:摂理は神の御意志
魂は非物質的なものであるなら、それは肉体が滅びたあとにも生き残ることになり、
魂は肉体の滅びたあとにも生き残るものなら、摂理の正しさが証明される。
魂の非物質性ということについては、この世における悪人の勝利と正しい人の迫害
ということのほかにわたしは証拠をもたない…
わたしたちにとってはすべては現世とともに終わるのではない。死によってすべては
ふたたび秩序を回復するのだ…
そして魂の生活は肉体の死をもってはじまる。
あなたは、二千年まえに世界のむこうのはての、どこかわたしの知らない小さな町で
生まれ死んだ神のことをわたしに知らせ、その神秘を信じなかった者はみんな地獄に
落ちるだろう、と言っている。これはまことに奇妙なことだ… (以上)
いろんな人の手が入っている書物からではなく、自然から学べとルソーは言う。
人間は本来、自然に宗教を感じられるものであり、難しい議論や理論は必要ない
はずである。自然な感情で神の存在を感じれば、神の存在証明などもする必要が
ない。このようなルソーの宗教観は自然宗教と呼ばれている。
そして根本部分である神の存在については信じるのだが、それ以外の部分は寛容
であるべきだと述べている。
例えば自分たちの宗教のみが正しいとか、他の宗教に不寛容で排他主義というのは
どうなのか。本来、神は一つでそれぞれの見方が違うだけで同じであるはずだから
尊重し合うべきではないのか。
他の宗派は地獄行きというのはどうなのだろう、ということのようだ。
こんなことを当時書けばもちろん書籍は発禁処分となり、教会や神学校からの論駁
書がたくさん届くことになる。そしてルソーには逮捕状が出され追われてしまう。
悪の問題では、人間には選択の自由が与えられていると既にルソーは指摘している。
悪の代償として死後に罰が与えられるはずだとルソーは言い、したがって死後の
世界はあるのだということらしい。
これはカトリックで言えば最後の審判において、正しくない者が永遠の罰を受ける
ということと同様のことを想定しているのかもしれない。
ファーブルとの関連で言えば、上記列挙した文言はファーブルの考えと似ている
部分も大いにあるように思われる。
一神教的汎神論を思わせる記述や、魂の不滅、それに悪の問題はファーブルも考え
悩んでいた問いである。(ブログ:ファーブルの疑問ーヨブの苦難 参照)
そして宗教の不寛容や排他主義の問題は、実際にアヴィニョンで迫害されたのだから
ファーブルも身を持って感じていたに違いない。
キリスト教というのは現代においても他宗教に寛容ではないのだろうか。
他の宗教も同様だと思うが、信仰の無い小生にとって気になる問題だ。
信仰するものは救われ、そうでない者は地獄行きという考え方なのだろうか。
1965年の第二バチカン公会議では、キリスト教でない者、知らずに死んだ者も
最後の審判で救済される可能性を提示しているが、矛盾点を回避しただけの気が
して非信者にとってはどうもすっきりしない。
最終的にはキリスト教へ回心しなければ無理なようで、これではルソーの言う
不寛容や排他主義の問題の根本的な解決は難しいように思える。
「カトリック教会のカテキズム」という書籍の第2部第3章1037に以下の記述がある。
注:カテキズムはキリスト教の教理の要約と解説がなされ、第二バチカン公会議を
踏まえた内容である。
神は、だれ一人地獄に予定してはおられません。自分の意志で、神から離れる
態度(大罪)を持ち続け、死ぬまでその態度を変えない人だけが地獄に落ちる
のです。
解釈は難しいが、最後までカトリックへの信仰を深めなかった者はやはり天国へは
行けないようだ。
ファーブルもキリスト教的視点から見れば、別の宗教観の持ち主である。
小生も神社や寺には行くもののクリスチャンではない。
ならばファーブル先生とはいずれ地獄でお会いすることになるのかもしれない…
一生懸命に働き研究し、それで地獄行きと審判されるのならファーブル先生も
浮かばれない気がする。
芥川の作品に「おぎん」という短い作品がある。
若い隠れキリシタンの娘が磔にされながら最後に信仰を捨てる話だが、
棄教する理由として信者でなかった父母が "いんへるの(地獄)" へ行くのに
自分だけが "はらいそ(天国)" へは行けないという想いを持って転ぶのである。
漢字の多い文が苦手でない方はぜひお読みになってみて下さい。
他には「奉教人の死」もお勧めです。
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