1914年7月20日
我が妹よ、先日の手紙にはまだ続きがあります。今日はそれをしたためましょう。
あなたを介してファーブル氏と斯様(かよう) に話すことができるなら、それはこの
敬うべき老人が精神の明晰さをすべて保っているということです。
そしてお気に入りの研究に心を委ねることがもう許されないなら、とにかく彼は
じっくり考えることができます。完璧に自由に行動でき、彼の高齢はまるで影響を
及ぼしていないのです。
ナポレオン一世がある日、セントヘレナで幽閉仲間に問うた質問をファーブル氏
は覚えているでしょう。
「イエス・キリストとは何かを知っているかね?」
皆、わからぬと謝りました。ナポレオンはそこで世界中で著名な者の名を挙げて
みせます。しかし、イエスと比べうる者など誰ひとりとして見つかりませんでした。
「イエス・キリストについては、別ものだね。」と彼は言いました。
「世界で最も得るのが難しいものを人間に要求するのだ。」
「愛だよ、そしてイエスはそれを獲得した。」
こうして十九世紀にわたって、彼は皆の心の中に死後も生き続けているのです。
この考えを展開させた後、ナポレオンはこう締めくくりました。
「私は人間というものを知っている、イエスは人間以上のものだと言える。」
私がこの件を引用するのは、ファーブル氏のまっすぐで論理的な精神に別の思考
を引き出すためなのです。
さあ、これが事実です:イエス・キリストは人類において最も純粋で、神聖で、
寛大なものによって、十九世紀の間、愛され崇められてきました。
彼にとって、人は苦労し、献身し、死ぬものなのです。それは過度に傾倒することも
なく、穏やかに、非常に素晴らしく実り豊かな美徳を実行しつつ、あらゆる貧困や
不幸から抜け出ているのです。この件は議論の余地はありません。
もう一つの話。イエス・キリストは自分が神の子であると公言しました。
父のように神であり、人間によって斯様に愛され、崇められるように、人間を救済
するために父によって遣わされたと。
もしイエスが本当に自分が言ったような者ではないとしたら、神は選り抜かれた
人間を斯様にだまされたままになさるでしょうか?
詐欺師ごときが、神にのみ帰するべき愛や崇拝を、自分の得になるように一人占め
にできるでしょうか?そして神が斯様な偽物の冒涜をお許しになるでしょうか?
なぜなら、もう一度繰り返しますが、それは人間の中の最高の者だったからです。
最も完璧で、最も慈悲深いのです。
神が偶像崇拝の中にお見捨てになるのは、この選り抜かれた者でしょうか?
神と神の摂理を信じる魂にとって、それはあまりに非道すぎるでしょう。
つまり、それはあり得ないことなのです。
ファーブル氏がこの点についてしっかり熟考されますよう。そして自身の信仰の
ための光をおそらく見つけるでしょう。自然の様々な支配を司る秩序を彼はとても
近くから見てきたのです。神であればなおのこと魂の世界にそれを与えておられる
でしょう!
その世界を見るには、まっすぐで、慎ましやかで、祈らねばなりません。
ベーコンもこれらの手はずの必要性を認めていました…。
(p.s)
ナポレオン一世:1821年、51歳でセントヘレナ島にて逝去。
遺書が残されており、クリスチャンであること告白している。
ベーコン:フランシス・ベーコン(1561~1626) はイギリスの哲学者、神学者。
雑誌「クリスマス」に掲載されているラッティ大司教の書簡は以上で終わっている。
1914年5月から7月にかけての計八通である。
ファーブル逝去まで一年以上あるが、その後も交流は続いたのであろうか?
シスターはファーブルの最期まで付き添っていたので、他にも書簡はあったのでは
ないかと思うが公開されていない。ファーブルに劇的な信仰の変化があれば公に
されていたのではないかと思うが…。
ファーブルは形式上はカトリックの様式で臨終を迎えている。
シスター・アドリエンヌが所属する修道会の書籍でも、カトリックの信徒として
逝去した旨が書かれている。
ただ、ファーブル先生が自分の宗教観を他者によって変えられるということは、
これまでの経過から見ても考えにくいのではないかと小生は思っている。