昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ラッティ大司教の書簡ー(6)

                                                                                         1914年7月15日

 我が妹よ、ファーブル氏の健康状態を知らせていただき、神の息吹を吹き込まれた

思いです。ひどい暑さにも彼がさほど苦しんでいないとのこと、大変喜ばしく拝読

いたしました。神のご寵愛を受けている彼ですから、寄る年波でさえ彼のたくましい

魂を弱らせることはできないでしょう。

 「神は何者をも試さない」と彼があなたに言ったというのはもっともなのです。

これらは使徒ヤコブの書簡にある表現で、主祷文の言葉と同様に美しいものです。

「ne nos inducas in tentationem」は翻訳が必要でしょう。

「我らを誘惑に誘い込まず、そこに我らを入らせぬよう。」という意味です。

 現実的な結論は、あらゆる誘惑からそれを見つければすぐに逃げねばならない

ということです。我らの精神はとても弱いものなのです。無鉄砲さや思い上がりなど

我らの美徳を冒し得るものに常に立ち向かわねばなりません。

「逃げよ、逃げよ」とボシュエは言い、主の祈りのこの言葉をこう説明しています。

「これは敗北しないための方法なのだ。」

 ファーブル氏は博物学者として神を信じると言っていました。他の学者も彼ら本来

の科学に応じて同じことを言ったのです。つまり神の存在は唯一の道理によって証明

されるということなのです。

しかし、それはまたカトリック教会の教義でもあるのです。教会は特に前世紀は

ラムネーに対してその教義に従っており、1869年バチカン公会議でも同様です。

しかし、思想家たちは理性の最後の行動は自分の未熟さを認識することだと言って

はばかりませんでした。

理論的な資料に、教会はそれらを補う信仰の資料を加えて完成させたのです。

まるで我らの視界を伸ばす望遠鏡のように、目を取り除くのではなくそれに適応

させ能力を高めたのです。

古代においてはプラトンアリストテレスが神の輝かしい事象について語り、

教会は遠慮なく彼らの非常に美しい表現のいくつかを拝借していたのです。

しかし、純粋かつ崇高な概念については、それらの表現はなんとも子供じみて

ばかげているものばかり!教理問答の答えはただ混乱を招くだけという有り様。

 現代では、神の概念は品格や調和の取れた一貫性を保っているのです。

ある要素は神を我らの上で無限に高め、また別の要素では我らの魂に神を近づけ、

我らに神を愛させてくれます。これがこの概念の影響だとすれば、キリスト教

でない哲学者にさえ、それを感じさせるでしょう。神は教会の教えにこそ存在する、

そうあらねばならないのです。

 教えそのものは十分ではなかったでしょう。教会はそこへ神の概念を実行に

移したのです。そして、我々の感情や行動など、我々の人生のすべてをまとめて

そこへ満たしました。そしてそれは同時に、理性と信仰、教義と思想を守ってくれる

のです。

 しかし、それがイエス・キリストの啓示でないのならすべては何なのでしょうか。

福音による光と確実性、十字架による救済と恩寵とは?

最後に至らねばならないのは常にこの結論なのです。

 そして神にとって、人間の扱い方は二つと存在しないのです。

例えば賢者にはこの扱い、愚者はまた別の扱い、と違うものになることはあり

ません。神の目には人間はすべて同じで、皆等しく過ちや罪を犯してしまう存在

なのです。すべての者にとって、ただ一つの信仰、ただ一つの洗礼、ただ一つの

聖体拝領があるのみです。

 おそらく、神はより多くの才能を受け取った者にはより多くを求め、少なく

受け取った者には少なく求めるのでしょう。しかし、各々にはそれぞれの仕事が

あります。この偉大な考えは、ファーブル氏のまっすぐな精神と彼の率直で

素晴らしい心を感動させ、捉えるためだと私は確信しています。

我が妹よ、あなた同様、「彼は我らのものである」と思います。

もちろん私は忘れていません。少し前に私が彼とおしゃべりした時、彼のまぶたを

そっと濡らした涙のことを。

 しかし、彼にはまだ信仰において昇らねばならない階段があります。

というよりむしろ、カトリックの信仰の実践において越えねばならない一歩という

べきでしょうか。彼がそれを成さんことを。確固たる意志を持ち、控えめな心で、

信者かつ学者として締めくくり、永遠についての関心以外は何も持たない人間

として。

 あなたにこんなに長い手紙を書こうとは思っていませんでした。これもあなたの

大切な病人が原因です。私が彼に感じる愛情の混じった敬意を伝えたいと思います。

 夜ごと、彼の短い祈りが私のものに加わって、ほんの少し長くなります。

そして今朝は読誦ミサを行いました…。

                アヴィニョン大司教 ミシェル・アンドレ

 

(p.s.)

神は何者をも試さない:新約聖書 ヤコブの手紙1章の「試練と誘惑」部分のことか。

ボシュエ:Bossuet(1627~1704) フランスのカトリック司教、神学者

ラムネー:Lamennais(1782~1854) フランス、カトリック思想家。

     キリスト教社会主義者

1869年バチカン公会議:第一バチカン公会議教皇の不可謬性の問題を扱った。

教皇不可謬:ローマ教皇が信仰や道徳に関する事を教皇座から宣言する場合、

聖霊の導きに基づくので決して誤りえない、という教義。)

プラトン古代ギリシャの哲学者。イデア論が神の思考としてキリスト教

     取り入れられた。

アリストテレス:哲学者、プラトンの弟子。

福音:福音書に記されているキリストの生涯や教えのことを表す。

   四つの福音書が正典として新約聖書に入っている。

聖体拝領:キリストの血と肉であるワインとパンを受け入れること。

読誦ミサ:ミサには歌ミサと読誦ミサがある。カトリック教会で行われる祭儀で

     最も重要で、日曜に教会に信徒が集まって祝う。

     意義は主なるキリストの十字架と復活を想起しその神秘に参与すること。

     そして感謝を捧げること。(日本大百科全書より)

 

書簡の内容は小生には難しすぎて理解できないが、可能な範囲で掲載させて頂いた。

主祷文の「わたしたちを誘惑に遭わせず」部分についてのファーブルの反論

「神は何者をも試さない」に対するもので、戸惑うシスターへの配慮と何とか

ファーブルを導こうとする大司教の苦心の書簡かと思われる。

 

主祷文については前に掲載したが、聖書に書かれているもので「天におられる

わたしたちの父よ、」で始まり、最後に「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から

救ってください。」で終わる。ファーブルは「誘惑に惑わされないよう神に頼んだり

しない、神はそんなことできないだろうから。」と言ってシスターに噛みついたが、

「神は何者をも試さない」というのはこの部分を言い換えたもののようだ。

 

それにしても…やはりファーブル先生は折れない。

誰が来ようとも同じ、いやむしろ権威を持つ相手なら尚更かもしれない。

衰弱していても頭脳明晰、自分自身に嘘をつけない人なのである。

これだからたくさんの人が惹かれるのだろうなぁ…と改めて感じ入った。

 

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

 

 

魂について (西洋古典叢書)

魂について (西洋古典叢書)