雑誌「クリスマス」1919年のB.ドルサン女史の記事によると、ファーブルは
1914年の春にジャンヌ・ダルク像の建立を願うサン=レオンの司祭宛に書簡を
送っている。もうファーブル自身の力で文章を書くことは出来なかったはず
なので、娘のアグラエが代筆したのでないかと思われる。
書簡内容は彼女が代筆し最後のサインだけファーブルが書くというパターンで、
実際にそういったものは残されている。
アグラエは終生ファーブルの傍に寄り添っており、1912年に48歳で逝去した
ファーブルの二番目の妻より11歳年上である。
司祭様、
あなた様の計画を最初にお知らせいただき、その光栄に感謝しております。
生まれ故郷に深い愛着と思い出がありますれば、あなた様の教会にジャンヌ・ダルク
像を建立するための寄付を喜んで送らせていただきます。
あなた様の行動は極めて慎ましやかで、ごみ箱に投げ捨てるようなものでは
ありません。私の心に残る最高の思い出…子供の頃の思い出を宿す小さな教会への
友情を込めたご挨拶でございます。
ファーブルは故郷を離れてから一度も帰らなかったと言われるが、
やはり故郷を忘れてはいなかったのである。
帰るに帰れないほどの忙しさと日々の生活で精一杯だっただけなのだ。
ジャンヌ・ダルク像は馬上で国旗を掲げているものや、立って国旗を持っている
ものが多い。フランス国内に37体ほどの像があるようだが、サン=レオンのものは
見つからない。昔の写真でサン=レオンと同じアヴェロン県に1体あったのを確認
しているが、こちらも現在のリストには見当たらない。
たくさんの像が建立されたようなので完全に把握出来ていないのかもしれないが、
戦争も経ているため既に失われている可能性もある。
個人的にはオルレアン市庁舎前に1837年に建立された銅像が好きである。
甲冑の一部を脇に置いてややうつむき、何となく物憂げな感じが良い。
勇ましくたくましい像よりも軍人らしくないところに惹かれるのかもしれない。
作家はマリー・ドルレアン(1813~1839)。
王女で彫刻家という方でとても興味深い、25歳で結核のため没している。
この「祈るジャンヌ・ダルク」はヴェルサイユ宮殿にオリジナルの大理石像がある。
写真は1880年撮影。
ジャンヌ・ダルク(1412~31)はフランスの英雄、神託を聞きイギリス軍を破り
オルレアン城を解放した。のちに捕虜となって異端として火刑に処せられたが、
百年戦争終結後には復権裁判が行われ1456年無罪となっている。
1909年に列福(聖人に次ぐ福者の地位)、さらに1920年には列聖されている。
以前のブログで、文部大臣デュリュイを失脚に追いやったカトリック教会の
急先鋒デュパンルー司教について述べた。
彼はオルレアンの司教ということもあってジャンヌ・ダルクの功績を高く評価し、
1869年には列聖のための請願書を申請しており、後の列聖に大きく貢献した。
途中、戦争があったり反対されたりで評価には長い時間を要したため、
存命中の列聖は叶わなかったが、1920年5月に行われたジャンヌの盛大な列聖式は
天国から見ていたということになるのだろう。
デュリュイやファーブル側から見れば司教は憎い相手だが、別の見方をすれば
偉大な貢献をしたカトリックの重鎮。
人の評価は見る側によって変わるのだから非常に難しい。
しかし故郷の像の建立になぜファーブルは寄付する気になったのだろう。
1914年にはまだ列聖されていないが列福はされている。デュパンルー司教のことも
承知していたはずだ。カトリック教会の聖人になるであろうジャンヌの像に寄進する
というのはいったいどういう気持ちだったのか。
アヴィニョンを追い出された後は、カトリック教会を嫌っていたはずだが…。
故郷の小さな教会はアヴィニョンとは別ということか、単に故郷に貢献したかった
だけなのか、それともファーブルなりのカトリックとの和解の意味合いが含まれて
いたのだろうか。
原稿の題は「ジャンヌ・ダルク」。
1874年刊行の書籍「オーロラ」第90章と同じ原文だが、
記載されている章は第89章と書かれていて異なっている。
内容は一般的でファーブルの個人的意見は入っていない。
ジャンヌの一生が生徒に分かりやすいように説明されている。