昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ラッティ大司教の書簡ー(序)

いきなり晩年の話になってしまうが、今までのブログでずっとファーブルと

宗教に関係する内容が続いているので、ラッティ大司教の書簡については

ぜひ先に触れておきたい。

これらの話は伝記などでも言及されていないので興味深い資料かと思う。

 

ファーブルの2番目の妻ジョゼフィーヌは1912年に48歳で逝去するが、この時に

1人の看護修道女がアルマスにやって来た。名前はアドリエンヌさんと言って

北に30㎞ほど離れているアルデッシュ県ヴィヴィエのサン・ロック修道会から

派遣された。逆方向だが同じくらいの距離にあるアヴィニョンからではなく、

なぜアルデッシュ県からの派遣であったかは不明だ。

自分を追い出したアヴィニョンの世話にはならないというファーブルの意思が働いた

と考えるのは勘ぐりすぎか?

しかしファーブルは晩年になっても40年以上前の苦い記憶を口に出していたらしい。

アヴィニョンでの迫害はそれほど失意の大きい出来事だったのだ。

 

このアドリエンヌさんはなかなか良い人だったらしくファーブルも気に入っていた。

奥さんが亡くなったあとファーブルもまたかなり弱っていたので、そのまま残って

今度はファーブルの介護を続けた。

数年前にオークションでアドリエンヌさんの後年の名刺を見たことがある。

名前の前にsainteが付いており、シスター聖アドリエンヌとなる。修道会は同じで

それ以上のことは書かれておらず、どのような地位であるのかはわからなかった。

 

徐々にファーブルも衰弱してきた時に、アヴィニョンのラッティ大司教という方が

ファーブルのもとを訪れてきた。もちろん1870年当時の大司教ではないがファーブル

カトリック教会のもめ事は承知していた。

このラッティ大司教は温和な表情をされている(Mgr. Latty で検索)。

1844年の生まれなのでファーブルと交流された頃は70歳位になっていて、

アヴィニョン大司教となってからは7年ほど経過した頃だ。

 

 よく考えてみればファーブルの信仰心が盤石なものであれば大司教はわざわざ

乗り出しては来ないだろう。セリニャンまで来訪すること自体がファーブルは

カトリックからみれば無信仰の人、1870年当時迫害したアヴィニョン住民の言葉を

借りれば異端の人でないかと考えていた証だ。

もともと教会と良好な関係だったのがそのような立場に追い込まれ、ファーブル自身

の宗教への関わり方、信仰も変化したのでないかと小生は考えている。

晩年のファーブルへの神についてのインタビュー、ファーブルがどう答えたかの

やりとりが残っているのでいずれ触れたいと思っている。

 

教会と和解のないままセリニャンに隠遁し、家族を養い好きな研究生活に没頭して

きたファーブルだったが特に晩年はその名は知れ渡っていた。

アヴィニョンでの確執も皆が知っている。大司教からすれば放置しておくわけには

いかなかったのかもしれない。

このままではファーブルは救われない、何とかカトリック信者として旅立たせて

神の御許へ行けるようにしなくてはならない、という大司教の強いお気持ちだった

のではないかと思う。

 

ファーブルに直接対面してみて自身への印象が悪くなかったと判断した大司教は、

シスター・アドリエンヌを介してファーブルに書簡を送リ始める。

この書簡の原本の所在は不明だが、その内容はファーブル没後4年の1919年に

「クリスマス」という雑誌に計8通掲載されていたので、その抄訳をこのブログで

少しづつ紹介していきたいと思う。

 

貴重な書簡が公開されるに至ったのは、ファーブルの晩年にセリニャンで取材を

していた作家、B. ドルサン女史が大司教の書簡を拝読する機会を得たことに始まる。

ファーブルに影響を与えたと感じた彼女は、その書簡内容を公開する義務があると

感じて雑誌に掲載することになった。

 

彼女はファーブルの友人でノーベル賞作家のミストラルへの取材なども行なって

おり、その名前は実名ではなくペンネームである。

またこの掲載誌は主に若い女性向けの週刊雑誌であるが、宗教関連の記事も多く

19世紀終わり頃から1940年位まで発行されていたようだ。

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