昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ファーブルへの書簡ーエルツェン教授(続)

さて、すべての事実が簡単に観察できるわけではなく、「偶然の観察に頼ったり、

幸運な偶然を当てにしたりしないことが望ましい」(有名なカナダ人、ボーモントの

胃瘻のように)ので、「観察を重ね一つ一つ確認し、事実を誘発し、先行するものに

ついて尋ね、後続するものについて調べ、その順序を解明する」必要があるのですが

「そのようにして初めて、慎重に、信頼に値するいくつかの見解を提示することが許

される」からです。これはあなた自身の言葉ですが、まさに生理学的なものです。

しかし、”それは大したことがない” とあなたは言います。では何をもって素晴らしい

と言うのでしょうか?科学の実用性でしょうか。そうだとすると、生理学は衛生学や

医学の唯一の合理的な基礎であるにもかかわらず、これまであまり役に立ってこなか

ったということを、私は容易に認めることになるでしょう。それは、私たちが十分な

実験をしてこなかったからであり、また、より良い観察やより多くの実験によって

覆された早すぎる結論や空虚な理論、信じるに値しない見解に、あまりにも簡単に

満足してきたからです。しかし、あなたは科学を実用的な効用、いわば肉欲的な効用

で評価する人ではありません。すべての科学は、自然の法則を認識させるという点で

プラトン的な、あるいは精神的な効用があると痛感しています。その点、生理学は

間違いなく最先端を行っています。それは、私たち自身が一過性の現象の法則を徐々

に明らかにしていくからであり、たとえ私たちの物質的な幸福に直接適用することが

できなくても、それだけで十分です。この50年間に生理学が成し遂げた巨大な進歩を

否定することはできません。それは、明らかなことに目をつぶることになります。

マジャンディー以前のものとクロード・ベルナール以降のものを比較して、それが

”大したことない” と言えるかどうか、良心的に判断してください。

 

生理学のどこがあなたは気に入らないのでしょうか?

昆虫の実験は ”眉一つ動かさず” 平気でできると信じていて、一貫性を持たせるため、

昆虫は無痛だと考えていると宣言しこの特異な意見を正当化するか、逆に昆虫は完全

に痛みを感じていると確信しているなら拷問する権利はあるのでしょうか?それとも

たとえ昆虫実験で ”眉をひそめる” ようなことがあっても、哺乳類においては実験を

してはいけないとお考えですか?つまり、彼らには私たちと同じような精神生活が備

わっており、彼らを犠牲にすることは一種の仲間殺しであると考えることです。

しかし、あなたは獣に理性を否定しているのでこの動機を認めることはできません。

あなたの目には、本能的な機械は、足が8本であろうと、6本であろうと、4本しかなく

ても、常に本能的な機械にしか見えないのです。それどころか、この理由は私の考え

と完全に一致しています。私は人間が大規模に行っている料理、工業、商業上の生体

解剖をすべて嫌悪し、あなたが賞賛する創造的な知性は、どうして万能の殺しを人生

の絶対的な条件にしたのかと自問しています。

 

そう、それは私たちを哺乳類に結びつける親族の内なる声であり、カエルや昆虫の痛

みよりも彼の痛みに大きな共感を私たちに呼び起こすものであり、それにもかかわら

ず、私たちが実験をしようと決心するのは、脳の欲求(トックリバチの本能が生きて

いるものや匂いのあるものを集め、幼虫は吸われ死ぬ運命にある、このようなことを

求め知ろうとする衝動)は、胃の欲求と同じくらい満たされる権利があると信じて

いるからです。結局のところ、すべての生理学者が犠牲にした動物は、たった一人の

デスヌカドールの短剣の下で処理された動物と比べてどうなのか?

未来のトックリバチが、何千匹もの生きたイモムシを使って行った非道な生体解剖に

比べれば、我々の作業はどうでしょうか?

生理学に何を求めるのか?それは「実験室科学」であり、この器官や器官の機能が何

であるかについての虚しい思索の山を築くことなのです。

エルツェン

注:

ボーモントの胃瘻:アメリカの軍医、銃弾で胃に穴が開いたカナダ人の胃液を研究。

マジャンディー:フランスの生理学者、脊髄神経の研究や薬物の発見に貢献。

クロード・ベルナール:フランスの生理学者、実験生物学の基礎を築いた。

 

生理学者が哺乳類を研究に使用することがあるので、ファーブルは生理学が嫌いなの

かと、ずいぶんと乱暴な絡み方をエルツェン教授はしている。畜産動物処理の描写が

昆虫記にも出てくるが、そこの書き方が教授は気に入らなかったのだろうか。生理学

研究と無理にリンクさせるような言い方にファーブルは好感は持てず、したがって

個人的な書簡の返信は行なわなかったのだと思われる。研究に忙しいこともあって、

付き合いきれないということだろう。

 

しかし、理性と本能が難しい問題なのは今も同じである。小生が学校で習った時は

脳を、脳幹部分、大脳辺縁系、大脳皮質に分け、それぞれを植物機能、本能・感情、

学習・記憶をつかさどる場所の様に教えられた。昆虫も含め生物はひたすら食べ、

子孫を残すことしか頭にないように見える。つまり本能行動に支配されているのだ。

いや、もしかすると本能の希薄な生物もいたかもしれないが、そのようなものは生き

られないから、結果的に地球上には本能行動に強く支配されたものが残るのだろう。

 

そんな中で、いわゆる理性や高次の精神活動で本能欲求にブレーキを唯一かけること

が可能なのが人間である。生物の世界は激しい、そこに倫理があるわけでなく、相手

をやっつけようが、巣を乗っ取ろうがお構いなしで、闘争が得意だろうが苦手だろう

が、適度に勝ち残って子孫を繁栄させた種が生き残る。殺生しても捕まることもない

が、これが人間の世界なら立派な犯罪者なわけで、だから大脳の発達した人間という

生物は特別だと思いたい所なのだが、これがそうでもない。歴史的に紛争、戦争は

絶えたことがないし、どの国の刑務所にもパンクしそうなほど受刑者が収容されて

いる。おいおい、本能をコントロールできるほど大脳皮質が発達したのではなかった

のか。確かに頭は良い、難しい哲学をする、難解な数学を解く、こんな生物は他には

いない。しかし、地球を最も汚染させ寿命を早めているのもまた人間である。頭が良

いと言っても中途半端なのだろう。本能欲求に支配されていることに変わりはなく、

地球にはびこり必死にしがみつく人間という生物の限界は見えており、淘汰されゆく

運命から逃れられそうにない。

 

昆虫記に出てくる "理性" は、いわゆる理性ではなくて知的な精神活動を指していると

思われる。最近の研究では昆虫の小さな脳もいろいろと解明されてきているが、それ

にしてもこのような能力が昆虫にあると思えないし、サイズは極めて小さな脳である

ことに変わりはないのだから、いちいち判断して場面ごとに違った行動を取るような

作りにはできない。やはり、小さな脳に合った、多くの行動パターンが本能によって

支配されている方が、圧倒的に子孫を残せるのだと思う。

エルツェン教授の言う、まず理性があり本能行動へ結晶化していくというのは、賛成

できない。生物は大脳の発達とともに、本能による行動のみから状況に応じた適応的

行動が取れるよう進んだ、と考えるのが自然である。

 

しかし、少し広く捉えて、こころとは何か?とか、エルツェン教授のファーブル宛て

書簡からいろいろ考えさせられた。こころは感情の動きを表すとするなら、感情を

支配する脳部分が発達した段階の生物でないと、こころを持っているとは言えない。

例えば、犬や猫は持っているが、昆虫にはないと言えるのだろうが、それはあくまで

人間側から見た感覚である。研究が進み似たような組織でも小さな脳の中に見つかれ

ば、人のこころと同じでないにしても、虫にも類似の感覚はありそうだとなるかも

しれない。

 

どんなに A.I. が研究されていっても、小さな昆虫の脳一つ作ることはできない。極小

の脳で獲物を捕獲し針で麻酔し卵を産み付け子孫を残す、そんな行動をする狩り蜂や

あらゆる生物を進化論で説明してしまうということにファーブルは強い拒否反応を示

し、激しい言葉を昆虫記に書き残している。

獲物である虫の胸にある神経の集中場所を針で刺せたハチが生き残るというのは、

あまりにも偶然が重なりすぎていると主張する。そして、ファーブルは昆虫の個体の

能力差とその学習能力は認めているが、学習したことが後代に遺伝される、いわゆる

獲得形質の遺伝については猛反対をしている。この獲得形質の遺伝は進化論の最も

大事な主張ではないが、ダーウィンはこれを認めてしまったために、よりいっそう

ファーブルの反発を招くことになったのである。

補足:

この書簡を書いたエルツェンという生理学者は、Alexandre Alexandrovitch Herzen

だと思われる。言語によって読み方は変わるが、あくまでもファーブルの視点から

ということで、アレクサンドル・エルツェンとした。1839年ロシアで生まれ1906年

ローザンヌで逝去。父親は哲学者、作家のアレクサンドル・イヴァノヴィッチ・エル

ツェンで革命家だったようだ。二人の子は共に生理学者になっている。エルツェンの

家系には医師や化学者もいて優秀な一族のようだ。彼は父を追って、ヨーロッパに

亡命、医学を学び1881年からスイスのローザンヌで教授職に就き、生理学研究所を立

ち上げている。