昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ファーブルの格言ー De fimo ad excelsa 貴き高みへ

題に掲げた言葉はラテン語で、これを見てピンとくる人は、ほとんどいらっしゃら

ないのでないかと思う。相当なファーブル通でも知ってる人は少ないはずで、なにせ

邦訳されていないのだから当然である。小生もたまたま、ルグロ博士の「ファーブル

伝」の原書を眺めていて気付いただけである。原書表紙の真ん中、右側あたりに、

申し訳ないような小さな字で書かれている、決定版昆虫記に付属しているファーブル

伝の方だと、表紙ではなく二枚目の頁に書かれている。

今まで何度か邦訳されてきた「ファーブル伝」だが、どれもこの文字を訳したものは

ないようだ。よくわからないラテン語だということでとばしたのか、それともただ

気付かなかっただけなのかよくわからない。もし、この言葉に今まで重きが置かれ

て来なかったのなら残念なことである。

 

"De fimo ad excelsa" デ・フィーモ・アデクセルサ、発音が正しいかわからないが、

なかなか音の聴こえは心地よい気がする。

単語の主な意味は、de ~から、fimo 糞、ad ~方へ、excelsa 高い場所、である。

糞から高い場所へ、とはいったいどういうことなのか?

ファーブルが好んだ言葉のようで、伝記の表紙に書くことを許したのだから、思い入

れがあるはずである。ただ、糞を意味する言葉が入っているので、ラテン語とはいえ

表紙に大きく書くのは遠慮したのかもしれない。

 

何とか上手い日本語を探しているがなかなか小生の力では訳が難しい。

ファーブルの研究で昆虫記第一巻を飾っているのは、糞虫なのだから、この昆虫に

対するオマージュであるのは間違いない。糞球を転がす様子から古代エジプト人は

聖なるものと捉え、頭部がスカラベの形の神がいるほど、太陽神の信仰対象だったの

だから、まさに糞虫から神の領域へ登ったとでも言うのだろうか。しかしながら、

ファーブルが太陽神を信仰していたわけではないので、どうもピンと来ない。

いろいろ探しているが、まったく同じ言葉の格言は、今のところ見つけられないので

ファーブルのオリジナルのようだ。

 

小生の勝手な想像だが、ファーブルは地面に這いつくばって昆虫観察に没頭した

ような人である。貧乏に苦しみながら、研究を続け発見をし、多くの家族を養って

きた。教会に迫害され、大学教授にも成れなかったが、多くの著名人から尊敬され

最終的にその名を残した人である。同僚にハエと揶揄されようが、妬み嫉みを受け

ようが、自分で道を切り拓いた人だ。

糞を観察する、まさに糞のようなどん底の状態から、高みへたどり着いた人である。

"糞から高みへ" というのは自分の念願を成しえたとも取れる。

 

しかし一方で、ファーブルは自己満足に浸る人ではない、もっと身体が万全なら

高齢になっても研究を続けていたはずで、どこまで行ってもこれでもう満足となら

ない気がする。したがって、いつか高みへ行くのだという譲れない信念を持って

歩んできた、その自身の人生の在り方を表した言葉だったのではないかとも考えら

れる。ファーブルの矜持を表したものであり、地に這いつくばり、皆から変な目で

見られ、それでも笑うものは笑え、今に見ていろという反骨精神、強い上昇志向が

ファーブルにはあったから、好んだ言葉なのではないだろうか。

 

excelsa という言葉をファーブルは好む。ファーブルの墓石に書かれた自作の格言に

もこの言葉が使われている (ブログ:ファーブルの墓の謎ーファーブルの格言参照)。

この場合は高貴なる場所ということで、小生はこれを魂だけの高貴な世界と考えた。

この墓石の格言と併せて考えると、糞を研究したファーブルが、最後には食物連鎖

ない、もちろん糞もない、ファーブルが固く信じた魂だけの高貴な世界へ行くという

意味が込められているのかもしれない。

ファーブル伝に書かれたような格言を考えている中で、ファーブルは徐々に墓石に

彫られた言葉へと、自身の思いが至ったのであろうか。

 

この格言についていろいろと思いをめぐらせていたのだが、ファーブル伝を読み直し

てみると、第一章の冒頭にこの格言に触れていると思われる箇所があった。

よく分からないままざっと読み流してしまいそうなのだが、実はファーブルの研究の

核心を突く部分で、さすがルグロ博士と感じる。博士がもしいなければ他の誰かが

ファーブルの伝記を書いたのだろうが、博士を超えるものはできなかったことは間違

いない。

この第一章の部分は、英訳書も含めどの訳書も表紙の格言そのものについての説明が

ないので、内容がとても分かりにくくなっている。参考のため、同部分を以下に引用

しておく。

「自然界の断片の一つ一つは、それぞれに、その秘密をもっている。その美を、その

理論を、そしてその解釈を持っている。そして、ジャン・アンリ・ファブルが、自ら

私に与えてくれ、そしてこの書物の題言となっている理想には、少しの偽りも誤りも

ないのである。泥深い沼地の中に消え去りゆく、或いは草地の中をさまよいまわる

小さな昆虫(むしけら) すらも、ファブルには、いとも高く情熱的な、示唆多き問題を

提供し、そこから詩歌のまったき奇蹟の世界が生れて来るのである。」

(ファブル傳 上巻 平野威馬雄訳 第一章 5~10行目 河出書房刊 昭和16年より)

ファーブルがルグロ博士に言った考え方で、この書物(ファーブル伝)のエピグラフ

になっている言葉というのは、やはり表紙に書かれている格言を指していると思われ

る。格言を頭に思い浮かべながらこの第一章部分を読むと、とてもすっきりする。

 

"De fimo ad excelsa"  デ・フィーモ・アデクセルサ

ほとんどの人が顧みない虫の糞に注目し、そこに自然の巧みさを感じたファーブルは

昆虫学に魅了され、本能とは何かなど多くの疑問に向き合うようになった。

辛抱強い観察を通じて、博物学を極めようとすることは、神に近づくことでもある。

どん底からてっぺんへ、糞から至高へ …… "底辺から貴き高みへ" 

この言葉はファーブルが非常に好んだ "ラボレムス" とも通じるように思う。

ファーブルがモットーとしたのは当然であり、ひと時も休むことなく、研究に人生を

捧げたファーブルにこそ相応しい言葉である。

ルグロ博士「ファーブル伝」表紙部分、1913年、ドラグラーヴ社。

真ん中、右寄りに小さく題辞が書かれており、ファーブルの名が入っているので、

引用ではなくファーブル自前の格言と考えられる。