昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ミノタウロスセンチコガネー獲得形質遺伝の否定

昆虫記第十巻4章に「ミノタウロスセンチコガネの美徳」という題の文が掲載されて

いる。ここではミノタウロスセンチコガネの番(つがい)が他の虫と異なり、子育て

に関して非常に情熱を持っており、雄は子育てをする雌を支え続けることが述べられ

ている。乾燥を防ぐため深い穴を掘り土を運び出し、さらに雄は糞を集め雌は細かく

して食物へと加工する。

ここまでは進化論で説明できるとファーブルは言い、しかしその後まだ雌は子育てが

必要なのだが、幼虫一頭分の食事が準備されたところで雄は巣を去ってしまうという

のだ。そしてファーブルはなぜこの忙しい時期にもう少し雄が雌を手伝うように進化

しなかったのか強い疑問を呈している。より有利な生き方が選択できるなら、進化と

いうものはどうして雄にあと何週間かの延命ごときを教えられなかったのかと。

そしてさらにファーブルは、このようなきわめて重要でありながら、ほんの少し学習

すれば実行できるようになることを教えなかったというのは、進化は共同作業のこと

も、深い巣穴が必要なことも、パン造りのことも何一つ教えてこなかったことを意味

していると拡大解釈する。進化と昆虫行動の関連を否定し、これらは持って生まれた

行動であり、生まれてからとる行動は何も変わっていないし変わってこなかったのだ

と結論する。つまり生来持つ本能で昆虫は行動しているだけで、これはずっと常に

変わらないという。

そしてこの本能は不可知であると述べる。万物の起源は聖域でその扉は開かれること

などありえないと断言するのである。進化は否定するが本能の成り立ちは分からない

というわけだ。

 

以前のブログでも小生なりに理解している範囲内で進化論について言及したが、

ファーブル先生はどうも進化論を獲得形質の遺伝のみであるかのように述べることが

あり小生は非常に気になるのである。あたかもそこが進化論の攻めるべき唯一の穴で

あるかのように仰る。本来、進化論は自然淘汰の考えがメインだと思うのだが、いつ

のまにか自然淘汰で説明すべきところでも、昆虫が学習した行動を後代へと伝える

獲得形質の遺伝を進化と捉え、こちらを攻撃し論破しようとするのである。

ダーウィンが認めてしまった獲得形質の遺伝ではあるが、これは進化論の本質では

ないはずである。

昆虫は日々行動していく中で、その成功や失敗の経験というものが次の世代へと遺伝

していくのなら、もっとましな行動を学習したものがそれを伝えているはずだと言い

それが行動として見られないなら、学習したことを伝えていないではないか、つまり

進化など起きていないではないかと言うのだ(ここで言うファーブルが否定する

進化とは、獲得形質の遺伝を指しているのだが、獲得形質の遺伝というものは現在

認められていないので、この批判は部分的には的外れではなくファーブルの反論は

ある意味正しいと言える)。

 

ではなぜ昆虫たちがこのような独自の行動を取るのかについて、獲得形質遺伝を否定

したファーブルはどう説明しているのかというと、この行動は生まれつきのもので、

つまり本能だと言うのである。そして、この本能はどのようにアプローチしようとも

決してその本質に近づくことはできず、その成り立ちは不可知のものだと述べる。

ただ、ファーブルが不可知と言ってしまっている本能、この生まれついての本能に

よる行動と言っている部分が、実は自然淘汰の本質でありファーブルの嫌いな進化論

で説明ができてしまうところが、本来の論点であるべき部分で肝心なところなのだが

かみ合わないのである。

 

長い年月の中で、同種の昆虫でも行動や体の形状が微妙に異なっていたものは数多く

いたはずである。そして、彼らが生きたその時々の地域の特徴や気候環境に彼ら自身

が大きく影響を受けることを想像するのは容易なことである。その時、最もマッチ

した身体の特徴や行動を偶然取っていた種類の昆虫たちが生き残ってきただけで、

進化と言えば誤解を生じやすく、あたかも最強であるかのような種へ変化している

と思ってしまうのは間違いだ。

生き残った種が絶対的な強さを持っているわけでなく、いったん環境変化でも起こ

ればその種は淘汰され、また新しい環境にマッチしていたものに取って代わられる

だけである。

 

類まれな観察者とダーウィンに称されたファーブルの眼でみた昆虫の行動観察が、

詳しければ詳しい程、そして獲得形質の遺伝を批判すればするほど、ダーウィン

書いた本来の進化論が際立つことになり、ファーブル先生の進化論の否定という思惑

ははずれ、逆に肯定する結果を示すというのは皮肉なことだが、それだけファーブル

の観察がごまかしのない事実に忠実なものだったということを示しているようにも

思われる。

 

ミノタウロスセンチコガネの共同作業、なぜ羊の糞を選んだか、なぜ巣を深く掘るの

かというのは、ファーブルは章前半で進化論で説明がつくといって肯定している。

それはそうだろう、誰が考えても理由は簡単に思いつく。

二匹で作業した方が生き残ってきただろうし、羊の糞は乾燥している欠点はあるが

他に競合するコガネムシが少なかったため、選んだ連中がエサを入手しやすかったの

かもしれない。もちろんその糞がさらに乾燥していくのを防ぐため、より深い巣穴を

造った虫がより繁殖しやすかったことだろう。しかし、ファーブルはなぜもっと長く

雄が雌を手伝わないのかという疑問を呈し、長く手伝う方がより生き残ったはずだと

いうのである。

 

ある時点で雄はいなくなる、又は寿命を迎える理由は確かに分からない。

ファーブルは実験で、観察箱の中では雄が居なくなる時期の後でも雌を手伝っていた

ことを観察しているからだ。寿命の問題だけなら実験箱の中でも確認できたはずであ

る。雄がある時期にいなくなった方がその後の繁殖が有利だったのだろうということ

が考えられるが、すべての昆虫行動が進化論で説明がつくわけではない。

例えば今まで正しいとされていた進化論的理由づけが否定され、別のなるほどと思わ

せる理由が新たに分かることは現在でもある。

ただやはり雄の寿命が来て巣の衛生状態が悪くなるよりも、居なくなってくれた方が

子孫が繁殖しやすかったというのは大きな理由になるように思われる。

ミノタウロスセンチコガネという種が生れてから今までに、雄がもう少し長く雌を

手伝っていた種類も実際はいたのかもしれない。ただその時その種がいた環境に偶然

何かが起こっていなくなってしまった可能性だってあるだろう。雄が長く居た方が

不利になってしまう理由は他にも今後わかるかもしれない。

昆虫が発生した当時から現在までの世界の環境変化を完全に把握している訳でない

のだから、全てきっちり自然淘汰で説明できないことがあって当然だと思われるが、

そのような曖昧な考えはファーブルには受け入れ難かったのだろう。

 

進化論=獲得形質遺伝ではないのだが、ファーブル先生の頭の中には獲得形質の遺伝

が成立するというダーウィンの考えが常にあったようだ。

経験したことが子孫に伝わるという都合の良い理論は、実際の観察研究をしている

ファーブルにとっては机上の空論に見えていたかもしれない。

そして、意図的ではないと思うが、ダーウィンが唱えた自然淘汰の理論を否定する

よりも獲得形質遺伝を否定する方が論じやすかったのか、反論の矛先が後者へ向かう

ことが増えていったように思われるのである。

ファーブルの最後の原稿として、以前ツチボタルのブログを書いた。

雑誌に掲載された順だと確かにツチボタルが最後になるのだが、出版社に送った原稿

は第三者の筆によるもので、ファーブルは原稿の最後にサインのみしているという

ものだった。

小生はファーブル自身が晩年に書いた原稿を見たいと思っていたのだが、昆虫記の

九~十巻の10個の章にあたる草稿を入手したので掲載しておく。

全体で52ページあり縦29センチ、横20センチ程度、ファーブル独特の非常に小さく

細かい文字が裏表に書かれ訂正も多くみられる。原稿は原稿でも草稿、初稿に近い

ものでないかと思う。昆虫記九巻が1905年、十巻が1907年の発行なので80~83才

前後に書いたと思われる。随分足腰や視力など衰えていたはずだが、筆跡は小生の

印象ではまだ研究への強い情熱を十分感じさせてくれている気がする。

原稿左真ん中あたりに、”ミノタウロスセンチコガネー所帯” とあり、十巻2章関連の

ページのようだ。このようにページ途中に時々章題が書いてあったり、文が区切られ

ていたりするが、まだどれがどの章になるかはっきり決まっていない段階のもので、

この初稿に色々な話が肉付けされ、章分けができていくようで興味深い。