先日、電車に乗って仕事先へ向かっていたのだが、強風で遅れが生じてしまいやむを
得ず途中の駅からタクシーを利用した。幸い駅前に数台停まっていて助かったが、
ひと昔前なら客待ちのタクシーが山ほどいたわけで、タクシーを利用すると必ず
昔の思い出がよぎってくる。乗車したタクシーの運転手さんに行先を告げたがおよそ
70歳になるかどうかという年代の方だった。車内にサザンの曲ががんがん流れてて
少々驚かされた。音量に驚いたわけでなく小生が違和感を感じたのは、サザンと
聴いているおじさんの組み合わせにである。以前ならこの年代なら昭和歌謡か演歌か
という小生の勝手な印象があったわけで、車中でいろいろと考えてしまいせっかく
流れているサザンの曲が耳に入ってこなかった。
仕事の関係で百歳を超える方々とお会いする機会があったが、明治に生まれた方は
もういなかった。そのうち大正生まれもいなくなり、戦前戦中生まれの方もいなく
なる時代になる。時の流れはあたりまえのことだが、先の人生が短くなってくると
何となく鬱気味になりやすい。ファーブルも晩年は身体が衰え好きな研究もできな
くなり悲観することが多くなったようだが、鬱状態であったのかもしれない。
さて暗い話はさておき、数年前に入手したファーブルの書簡があったのでご紹介して
おきたい。宛先は書かれていないがコルシカ時代のもので、内容からするとモキャン
(モカン)=タンドン教授宛てと思われる。ファーブルがマラリアのため本土で一時
療養生活を送っている頃のものだ。
拝啓
あなたが楽しみにされている植物と手紙を一緒に送りたいという私の希望がなければ
もっと早くあなたの手紙に返信したことでしょう。ご親切にヴァリヨラリア(貝類?
Variolaria)の箱とたくさんの冊子がお送りいただいた荷物の中にありましたので、
たいへん感謝しております。また、ペロードー(動物学者Payraudeau)のカタログが
送られたとお聞きしましたが、荷物に入っていませんでしたので、これはおそらく
先生の見落としだと思います。わたしは天然痘の食事療法を行いましたが、気がつい
たら元気になっていました、治癒までもうすぐです。
アジャクシオの植物を600種ほどお送りしますが、これですべてが終わったとは到底
思えません。海岸と近隣の丘陵地帯を細心の注意をはらって旅してきましたが、私は
これらの地域のすべての種を所持していると思っています;ただ栽培されたものに
ついてはほとんど知りません。幸いなことに、四月から五月にはアジャクシオに戻る
予定なので、アジャクシオの植物コレクションを完成させることができるでしょう。
私の荷物の中には、モント・ルノゾ(コルシカ島中央の山 Monte Renoso)とその麓
のバステリカ村(山の南西部のコミューンBastelica)のいくらかの植物が含まれてい
ますが、私が持っているたくさんの隠花植物(胞子で繁殖する):アジャクシオの
コケ類mosses、地衣類lichens、藻類algaeの中で最も標高の高いものの一つです。
ご希望でしたらお送りします。八月にあなたがコルシカにいらっしゃるなら、
それまでに収穫したものを差し上げます。あなたは間違いなく私の同定に多くの誤り
を見つけるでしょうから、私はそれらに覚え書きを添えました。もしあなたがそれら
を訂正してくださるなら感謝いたします。
最後に私はいくつかの本を入手したいのですが、その中には以下のものがあります。
ラマルク:無脊椎動物の歴史、Deshayer による第二版
ドラパルノー:フランスの陸生および河川性軟体動物の歴史
フィリッピ:シチリア島の軟体動物目録
ミノ:南欧の博物誌
ペロードー:コルシカ島の軟体動物カタログ、あなたが私に約束してくれた作品。
そして最後に私の薬草学のために、地中海の藻類とフランスのコケ類に関する条約。
これらの書物を入手するためにどの書店に依頼すればよいのか、お教えいただければ
幸いです。
私はルキアン氏の勧めに従って、Cerutodon Corsicus など数種のコケを集め、住所の
分からない Schinger氏に送るつもりでした。彼のために採集した収穫物を送りたい
ので、あなたがご存知のはずの彼の住所をお教えください。
私が必要な本の中に私が入手できずあなたが必要としないものがあれば、しばらくの
間お預けくださればたいへんありがたいです。あなたが仰っていたコルシカ来訪時に
それらをお返しいたします。
もし私にお返事を下さるようでしたら、ピエールラット(ドローム県)のアルム広場
”ファーブル氏のコーヒーポット(カフティエール)” 宛てにお送りください。
あなたの最も謙虚で献身的な使用人
ジャン=アンリ・ファーブル
注)コルシカ赴任後、ファーブルは熱病に感染しフランス本土に戻り療養している頃
の書簡になる。以前紹介した1852年の別の書簡で、ファーブルがオランジュの弟宅で
静養している内容のものがあり、どういう理由か分からないがピエールラットの父親
宅にその後移り療養を続けている。この書簡には日付がないが既に父親宅からなので
1852年の書簡ということになる。タンドンはこの年にコルシカを訪れているので、
書簡の内容が正しければ1852年の8月にタンドンはコルシカを訪れたことになる。
4~5月にはコルシカに戻ると述べているので2~3月頃の書簡かもしれない。
天然痘の食事療法という言及があるが、天然痘に罹患したというのでなくおそらく
ファーブルが信奉する家庭用医学書がありその本に書かれていた治療を、マラリアの
治療としてファーブルは応用したのかもしれない。また、小生が以前入手し損ねた
ファーブルの書簡には治療として地衣類を食して治したとあり、そのような民間療法
を行ったのかもしれない。ファーブルのコルシカでの協力者レヌッチ君からの書簡で
は、やはりマラリアに罹りキニーネを使用したとあるのだが、ファーブルは入手でき
なかったということだろうか?いずれにしても民間療法のような治療で回復するとは
思えず、休養と十分な食事、そして何よりファーブル自身の強靭な身体に拠るところ
が大きいのでないかと思われる。
ファーブルはコルシカ時代に貝類の研究と植物の収集を行っていた。いずれも書籍を
出版したかったようだが結局望みはかなわなかった。この書簡でも明らかになって
いるが、やはり種の同定と文献の収集に苦労していることがわかる。ファーブルには
師と言える人があまりいないのだから仕方がない、植物ではルキアンに助けられたと
思うがコルシカで1851年に急逝してしまっている。
タンドン教授は伝記ではファーブルにコルシカでカタツムリの解剖をしてみせたり
して非常にフレンドリーなイメージがあるのだが、パリにファーブルが訪ねた際は
冷たかったようだ。1853年のタンドンの書簡でも文献についてファーブルからの依頼
に返信した内容のものが残っているが、タンドン自身も軟体動物の書籍出版を予定
しており、ファーブルに何でも無償で貸与するのは難しく煩わしかったのではない
だろうか。やはり独学では、さすがのファーブルでも限界があったと考えられる。
小生はこのようなコルシカでの挫折が、後に昆虫行動学と言える研究方法へ転換して
いく契機になったと思っている。たくさん収集し分類してという研究でなく実験研究
するというファーブルのスタイルなら、種の同定や分類に費やす労力は明らかに軽減
されると思われるからだ。
おかげでわれわれは昆虫記というものを読むことができるのだから、挫折して良かっ
たとも言えるのだが、更に考えてみるとファーブルに十分な資金があって師といえる
人に恵まれていたら、昆虫記はこの世に生まれていなかっただろうが、生物学の分野
か数学の分野かでファーブルなら学術的な新しい発見をしていたのかもしれない。
何が本当に良かったのか誰にも分からないが、これがその時々を精いっぱい生きた
ファーブルの人生だったということだ。
ピエールラットの父親のカフェはアルム広場とあるが、地図で調べてみたが分からな
かった。今あるのは中心部からややはずれたアルム通りという道路のみである。
書簡に父親の住所について ”ファーブル氏のコーヒーポット” と大文字で書かれている
ので店名なのだろう。別の場所で開いた店は違う名前だったので、カフェを開く度に
名前を変えていたのかもしれない。
書簡は4頁で最後にファーブルの美しいサインがある、1852年28歳時で若さに溢れて
いる印象を与える書体である。