昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

パスツールの訪問

フランスの生化学者、細菌学者のパスツールは1865年にファーブルを訪問している。

ファーブルがアヴィニョンでアカネの研究に明け暮れていた頃だ。

わざわざ自宅まで訪ねたのは、当時フランスを悩ませていた蚕の病気について

解決方法の研究を恩師デュマから依頼されていたからである。

フランスでの蚕の飼育と絹の生産は13世紀に始まり19世紀には主要な財源だった。

したがって、蚕の病気が蔓延すれば絹産業は大打撃をうけ、国にとっても一大事

となるのである。

そして、病気はヨーロッパに蔓延していたため、まだ病気が少なかった日本から

蚕種を取り寄せたことがよく知られている。

 

ファーブルは物理の教師だが化学にも詳しい。当然パスツールの業績は知っていた。

そのパスツールが自宅に来るというのである。さぞや緊張したことだろう。

ところがパスツールの方はファーブルのことなどさして興味はない。

南仏に居て昆虫に詳しいというので訪問しただけである。頭の中は恩師に依頼された

蚕病をいかに解明するかで一杯であり、その糸口になる情報を集めていただけだ。

なにせ絹産業の危機で国家の命運がかかっているのだから責任は重かった。

 

1865年はファーブルはアヴィニョンのマス通り26番から、そろそろアカネ研究に

適したタンチュリエ通り(染物屋通り)14番に転居した頃だ。

(ブログ:アヴィニョンの住所参照)

パスツールに繭を見せるため隣から借りたと昆虫記に書かれている。

タンチュリエ通り12番にはリカールという大家が住んでいた。

彼女は未亡人で息子と住んでいたのだが職業は紡績工である。

紡績は繭から絹糸を紡ぐ仕事だから当然繭も持っていただろう。

まさか数年後にファーブルを追い出すことになる大家の彼女から繭を借りていた

というのが事実なら皮肉なことである。

弟のフレデリックもアカネや蚕・絹の取引を行うドックの理事をアヴィニョン

していたので、弟から借りた可能性もあるが隣には住んでいないので違うようだ。

(ブログ:弟フレデリックの仕事参照)

 

小さな住まいが並ぶ通りで質素な生活をしていたファーブルを見て、パスツール

何か感じただろうか?

南仏の教師は稼ぎは少なそうだとか、潔癖症気味のパスツールは住まいを見て早く

帰りたい等と思ったかもしれない。さっさと繭を見せてもらい必要な話を聞けば

用は無いと。

そんな顔合わせになってしまったのだから話も弾みようがない。

パスツールの態度を見てファーブルも徐々に不機嫌になったのではなかろうか。

なにせファーブルはどんな偉い人にも臆することはない。文部大臣デュリュイに会い

ナポレオン三世に謁見することになっても媚びることもない。決して受けた恩は

忘れないが権威にすり寄る人ではないのだ。

 

怒りっぽいが家族への愛情が深いことや、研究に対する熱心さなどお互い共通する

部分もあったはずなのだが、出会いの印象が悪すぎて交流はそれきりとなった。

昆虫記第9巻 23章にファーブル自身が書いているが、蚕のことを研究しようとして

いるのにパスツールが蚕について何も知らなかったことにまず驚いている。

蚕の繭を振って「中でカラカラ音がするのは何か?」とファーブルに聞いている。

ただ、これはパスツール自身も最初から自覚していたことであった。

解明を依頼した恩師のデュマは「知らないから先入観を持たずかえって良いのだ」

「君は君自身の観察から得たこと以外のことを考えてはいけない」

パスツールに言って説得している。

 

そして最もファーブルが嫌がったのは酒蔵を見せるように言われたことだった。

貧弱な酒瓶のみの酒蔵を初対面のパスツールに見せることになって、ファーブルの

プライドは大きく傷ついた。

立場は違うが同じ研究者である。既に名前の知られていたパスツールに自分の

貧しさを晒すことは耐えがたい屈辱だったのではなかろうか。

ただ、パスツール側から見れば、ワインの病気についての研究もしていたので、

どのような保存方法であるのかとか、地域による違いなどにも興味があっただけ

でないかと推測される。

 

ルネ・デュボスの伝記にあるが、パスツールは衛生面に非常に気をつかっていた

ようで、食事に混入している虫の残骸もよく見つけたという。

ただ、彼以外の家族は誰も見つけられなかったとあるので、潔癖に近いかなり

ナーバスな面が目立っていたようである。

そのため握手をする習慣などもなかったので、ファーブルはパスツール

やけに愛想の悪い人だと感じたことだろう。

 

パスツールはファーブルだけでなく多くの名のある養蚕家も訪ねて質問したが、

わかったことは原因や対処法がはっきりせず、現場が非常に混乱しているという

ことだった。

蚕が生まれてすぐ死んだり、成長途中で元気が無くなったり様々な症状を呈した。

ただ目立ったのは皮膚や組織に斑点が出るもので、これは「微粒子病」という

名前がついていた。

環境を消毒すれば良いとか、飼育にはまず良い種を選ぶことだとか様々な情報が

あったが、パスツールが注目したのは病気の蚕に見つかる ”微粒子” の存在だけ

だった。(科学者パストゥール みすず書房参照)

 

微粒子病は菌類の一種のノセマ・ボンビキスが外部から寄生することで起こる。

それらを持たない蛾から生まれた卵は微粒子を含まないことをパスツールは証明し、

そして紆余曲折を経て最終的に "母蛾検査法" に行きつく。

微粒子のない蚕卵を得るには、卵よりも蛾を優先的に検査すべきであると。

なぜなら微粒子が見つかるようになるには時間がかかるので、卵を調べても

微粒子を発見できないものも多いということらしい。

それなら親である蛾の方を調べようということだ。

微粒子が発見された蛾が見つかれば、その卵はすべて処分するという方法である。

言われれば簡単な方法なのだが、パスツールはこの方法を農家に浸透させるのに

ずいぶん苦労している。

研究途中で蚕には別の病気もあることがわかった、その病気になるとぶよぶよと

黒ずむのだが微粒子は発見されないのである。

これは ”軟化病” と言われ、パスツールはこちらの研究もすることになる。

 

パスツールは1868年に脳卒中に倒れ左半身麻痺になるが研究を続けた。

40代で脳血管障害とはいかに無理をしてきたかという証明だろう。

そして1870年には最終的なまとめとして書籍 (Etudes sur la maladie des vers a soie)

を刊行した。この本は邦訳があり明治21年に「パスツール氏蚕病論」として有隣堂

から刊行されているが、もちろん絶版で入手難である。

 

研究手法や相手を徹底的に論破するやり方などで批判されることも多いパスツール

だが、いろいろと言われてもやはりすごい人だと思う。

実はファーブル同様、パスツールも大切な子供を失っている。

特にファーブルを訪問した1865年には父親と四女のカミーユを亡くしている。

1859~66年にかけてはその他に娘二人を病気で失い、それでもなお研究を続けた人

なのである。1822年の生まれでファーブルとは同世代であり、何か一つきっかけが

あったら懇意になれていたかもしれない。

ファーブルの人生の中でいろんな人がその時に応じて関わっているが、パスツール

ついては最も残念な邂逅で終わってしまったのだと思う。

 

ファーブル先生は怒り出すと誰にも止められない、ただ嵐が過ぎるのを待つのみだ。

面と向かって初対面のパスツールに文句は言えなかったはずで、犠牲になったのは

家族だろう。パスツールが帰った後は大荒れになったのではないだろうか?

 蛹のことも知らなくて研究だって?!ふざけるんじゃない

 それになぜ他人の酒蔵まで見なくちゃいけないんだ!

 握手もしないし、失礼極まりない!

 敬意を払っていたのに、あんな人だと思わなかった!

 

小生の勝手な想像だとこうなる。

根拠がないわけではない、昆虫記に書かれたパスツール訪問の記載は抑えて書いて

いるがかなり批判気味なのが滲み出ているからだ。

昆虫記第9巻は刊行がこの訪問の40年後の1905年、すでにパスツールも1895年に

72歳で逝去しており、ファーブルもかなり冷静に当時を振り返っている。

そして、先入観を持たずに研究するという姿勢をパスツールから学び、取り入れた

とも言っている。

 

この訪問の様子からはどうにも相性が悪そうに見えるが、それはその時お互いの

向いている方向が違っていただけで、別のタイミングで会っていればまた異なって

いたかもしれない。なにしろ二人とも話すネタは山ほど持っている。

それほどお互い身を削って研究に人生を捧げており、ひとつひとつの出会いを

全て大切にできる余裕はなかったのだろう。

 

小生はファーブルの信奉者だが、フランスにおけるパスツールの評価は格段に高い。

純粋に化学だけでなく狂犬病ワクチンなど人類に多大な貢献をしているのだから

当然かもしれない。

値段が全てではないのだが、コレクター的に言うと原稿一枚についた価格が一桁以上

ファーブルと違うということが、フランスでのパスツールの評価を端的に示して

いる。

 

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パスツールの直筆メモ書き。半身麻痺になる前の筆跡なので1865~68年のものと

思われる。1857年のデュマの蚕病に関する報告、アンドレ・ジャン氏の研究など

参考にしたようだ。

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「Etudes sur la maladie des vers a soieパスツール著 1870年刊

同僚研究者ジェルネ(Désiré Gernez) の書き込みあり。

1896年に研究室のあったアレに業績を記念してパスツール銅像が建立された。

その際、モデルとなったとされる桑の葉が同封されていた。

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「La science illustree」 469号より

アレ(現名称はアレス)にあるパスツール銅像

左手に桑の葉を持つ。

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邦訳「パスツール氏蚕病論」明治21年有隣堂刊 挿入図

健康なカイコの図

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「Etudes sur la maladie des vers a soieパスツール著 1870年刊 挿入図。

カイコの蛹解剖図。

 

ルイ・パストゥール〈2〉 (1979年) (講談社学術文庫)

ルイ・パストゥール〈2〉 (1979年) (講談社学術文庫)

 

 

科学者パストゥール (1964年) (みすず叢書〈5〉)

科学者パストゥール (1964年) (みすず叢書〈5〉)

 

 

自然発生説の検討 (岩波文庫 青 951-1)

自然発生説の検討 (岩波文庫 青 951-1)

 

  

完訳 ファーブル昆虫記 第9巻 下

完訳 ファーブル昆虫記 第9巻 下