昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ラボレムスーLaboremus

ファーブルはラボレムス-Laboremus というラテン語を好んだ。

歴代の邦訳は以下の通りである。

 働け(昆蟲記 叢文閣、ファーブル昆虫記 河出書房)

 努めよや(ファブル昆蟲記 アルス)

 我ら働かんかな(ファーブル昆虫記 岩波書店

 さあ働こう(完訳ファーブル昆虫記 集英社、ファーブル巡礼 津田正夫著)

 

ラボレスムの単語一つでは格言になりそうもないのでどうかと思ったが、

誰が言い出したのかと調べてみた。

ローブ・クラシカルライブラリーの中に「ローマ皇帝群像」という書籍がある。

この中に "Laboremus" の言葉を見つけることができた。

(Scriptores Historiae AugustaeⅠ、Loeb classical library)

ありがたいことに、これは京都大学学術出版会から西洋古典叢書の一つとして

邦訳されている。

 

ローマ皇帝群像という伝記集は間違いも多く、資料的には問題があるようだが

当時の文献が少ないので用いざるを得ないということのようだ。

この中のセプティミウス・セウェルス Septimius Severus という人物の章で

(セウェルスの生涯参照)ラボレムスという語が使われている。

セウェルスは共同皇帝や帝位請求者を除くと第20代ローマ皇帝(在位193~211年)

になる。日本では弥生時代になり、イエス・キリストが現れて200年程経っている。

ちなみにセネカと関わりのあったネロは第5代ローマ皇帝(在位54-68年)だ。

 

皇帝セウェルスがイギリス遠征中、病気で亡くなる直前に当番の将校に合言葉として

「勤勉たれ(Laboremus)」を与えるように命じたとある。

小生にはよくわからないのだが、この合言葉は当時重要だったようである。

第18代皇帝のぺルティナクスは合言葉として「兵士たれ」を与え兵士らの反感を買い

殺害されることにつながった。

セウェルスはこのことを踏まえて言葉を選んだようだ。

 

ローブ・クラシカルライブラリーは非常に良く出来ていて、ページの左にラテン語

対訳として右ページに英語が書かれている。

Laboremus の英訳として記載されていたのは、Let us work.  Let us labor. などで

なく、Let us toil. だった。

英語だと Labor になるのかと思っていたが…

そもそも labor と work ではどう違うのか?

英英辞典を見ると肉体労働のような厳しいものを labor というようだ。

toil については骨折りという意味で、work hard、labor と似ている。

英英辞典だとあくせく働く、骨を折って働くとあり、楽しい仕事ではなさそうだ。

  

ラテン語の文法的には要求の接続法の中の勧奨というもののようで、一人称複数形

をとり laboremus「~しましょう」となる。

したがって"働け" というような命令形の訳は無理があるように思えるのだが、

軍の合言葉となれば命令形の訳の方が合うのかもしれない。

 

labor や toil から考えて意味を拡げると、

粉骨砕身せよ、刻苦精励せよ(苦労しながらも全力で仕事をすること)となるが

堅苦しいので、力の限り頑張ろう、といったところか。

ローブの邦訳では ”勤勉たれ” となっているのだが、仕事や勉強に励む意味となり、

厳しい労働の印象は持ちにくい気がする。

ファーブルが好んで使ったのはもちろん軍隊用ではなく、自分を叱咤激励するため

なのだから訳としては、頑張ろう!とか、働こう!というのが結局フィットする

ようだ。

 

昆虫記第10巻22章の最後はこの言葉(Laboremus)で締めくくられている。

ルグロ博士によれば第10巻の23、24章は第11巻として計画されていた原稿なので

本来はラボレムスの言葉が10巻の最後を飾るはずだった。

アヴィニョンでアカネ染色の工業化の夢が破れた時、今度はインク壜の中から

取り出そうと言って、ラボレムスで文を括っている。

 

ファーブルはとにかく働いた。

自分の好きな研究に没頭し、教科書もたくさん書き、家族を養うためにベストを

尽くしたはずだ。ファーブルの原稿を見ているとよくこんなに書いたものだと

感心する。細かく美しい筆跡が罫線も無いのにきれいに並び、そして紙を大事に

したせいか訂正が少ないことに驚かされる。

 

子供が早逝した時も仕事に没頭することで、何とか少しでも忘れていられる時間

を作りだそうとした。

もちろん以前のブログで述べたように、霊魂不滅や来世の存在を信じることでも

乗り越えたのであろうが、実際の生活の中では仕事に没頭することで何とか

考えないで済む時間を作ろうとしたはずである。

単なる仕事中毒ではない、人が仕事に打ち込むのは何かしら理由がある。

 

ファーブルは弟のフレデリックにあてた手紙の中で、やはり子供や妻を亡くした

弟を励ましている。その中で、辛いことを乗り越える方法として仕事に邁進する

ことを勧めている。

この方法が正しいやり方なのか小生は知らないが、誰も頼る人がいなかった

ファーブルが捻り出したしのぎ方だったのだろう。

 

そして辛いことは時間の経過のみが癒してくれるとファーブルは述べているが、

日本でも「日にち薬」という言葉がある。

一日一日何とか過ごすことで、辛いこともほんの少しづつだが軽くなっていく。

忘れられるわけがない、ただ想い続けながらも毎日を何とか乗り越えることで

やっと傷口がわずかづつ修復されていく。

 

16歳で亡くなったジュールは、ルグロ博士によると活発で才気あふれる少年だった

らしい。感受性に優れファーブルの真の後継者だった。

悪性の貧血に蝕まれていたとあるが、おそらく結核に罹患していたのだろう、

転地療養まで行なっているが回復に到らなかった。

弟への手紙の中では他人の慰めなど何の役にも立たない、傷口を多少かたまらせる

のは、時の力と仕事だけだと述べている。(ファーブル伝 講談社文庫参照)

 

ファーブルの悲しみは癒えていなくても、働かなければ生活できないという現実が

目の前にある。いろいろな想いの全てを胸の中に抑え込んで、それでもなお

前を向き生きて行こうという決意が "ラボレムス" の一言に凝縮しているのだろう。

 

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ドイツのフリーメーソンロッジとされる写真、

看板にLaboremus とあり興味深いので掲載した。

フリーメーソンにとって労働は崇拝。

ファーブルとフリーメーソンはもちろん関連はない。

 

 

ローマ皇帝群像〈2〉 (西洋古典叢書)

ローマ皇帝群像〈2〉 (西洋古典叢書)

 

 

古典ラテン語文典

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完訳 ファーブル昆虫記 第10巻 下

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ローマ人の物語 (31) 終わりの始まり(下) (新潮文庫)

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