昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

ファーブルの最初の教科書(補遺)

「ファーブルの最初の教科書」という題で前に記事を書いた。

1862年刊行の農業化学基本講義というテキストだが、最近もう1冊入手することが

でき、さっそく序文前頁にあるサイン部分を見たが、予想通りファーブル手書きの

サインがあった。やはりファーブルはこの最初の教科書の初版には全てサインを

したようだ。

同じ初版だが、今回入手した本と以前から持っていた本の異なる点は表紙に貼り紙

がされていないという点だ。「この教科書の学校使用は文部大臣が許可している」と

書かれた紙片が貼られていない。

このことについて知り合いのフランス人の意見を聞いてみたが、学校で使用する本

のみ学校関係者が貼ったのでないかという、聞けば当たり前、納得の推測だった。

貼ってないのは学校の生徒以外にも読まれたということだろう。

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これも前にブログで述べたが、この本の第二版にはアヴィニョンのドゥベレイ大司教

が学校での使用に相応しいという内容の推薦文を書いている。

大司教の名前はJean Marie Mathias Debelay(1800~1863年)と書く。

この大司教に関するラテン語の本(下に画像添付)があるのだが、こちらには大司教

の名はラテン語でJoannis Mariae Mathiae Debelay と記載されている。

なぜ使用言語によって名前のスペルまで変化するのか浅学の身には理解できず

これも知人に聞いてみたが、元になっている聖人や使徒の名前があって…云々

と説明された。わかったような気はしたが変化しない名前のこちらからすると

どうもピンとこない。

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さて、最初の教科書刊行の7年前、ファーブルは1855年に自分の学位論文の別冊を

ある司祭宛に献呈している(慶應義塾大学図書館所蔵)。

ファーブルのサインが入っているのだが献呈先の名前がJohannysと書いてある。

上記ラテン語本にある名前Joannisという綴りを見た時に、この献呈サインを

思い出してしまった。

何となく綴りも、たぶん発音も似ていないだろうか?

 

このような重箱の隅のようなことをすぐ思いついた理由は、この学位論文の方の

献呈サインを以前見た際に、いろんな疑問が浮かんでずっと気になっていたからだ。

 自分の学術論文を畑違いの宗教関係者に献呈するって普通のことなのだろうか?

 この相手の名前の書き方だと個人的にかなり親しい人なのではないか?

 ファーブルもこの頃は教会とのつながりが強かったのか?

 それとも既にカトリック教会に気を遣っていたのか?

 アヴィニョン住所録に載っていないこのJohannysとは誰なのか?

 ただの知人かそれとも教会関係者で地域の有力者だったのか?

 などなど。

 

疑問は一つも解決しないままだったのだが、万が一、学位論文の献呈サインの宛名が

ドゥベレイ大司教のラテン名の書き間違いであって、ファーブルが学位論文を献呈

していたのなら大司教とは懇意の間柄であったとも考えられる。

それで大司教直々にファーブルの最初の教科書の推薦文も書いてくれたのでは

ないだろうか…。

 

ただこれは今のところ甚だしい憶測、こじつけに過ぎない。特にcure という単語が

献呈文に入っているので大司教宛ではなく、むしろ普通のカトリック教会の司祭宛と

考えるのが妥当だろうと思う。

 ファーブルには最初の妻マリーとの間に7人の子供がいた。

三女のアグラエはファーブルの晩年もずっと傍に付いていた人だが、1853年に

アヴィニョンで出生している。また四女クレールは1855年にやはりアヴィニョン

生まれている。全て推測になるが、もし彼女らが洗礼を受けていれば司祭のお世話に

なっていたと考えられ、ファーブルが自著を献呈したとしても不思議ではない。

 

いずれにしても、ファーブルと教会との関係だけで言えば、少なくとも1855年から

1860年代前半にかけては良好であったことがうかがわれる。

 

(追記)

ちなみに四女クレールは昆虫記第4巻10章「ドロバチの狩り」に出てくる。

ファーブルの良き協力者であったせいか、結婚にファーブルは大反対だったが

最終的には許した。

結婚後、2人の子供(ファーブルの孫)を授かったがいずれも早逝している。

悲しむクレールへファーブルが送った手紙が残されているのだが、

これは傷ついた娘を思いやるファーブルの愛情が溢れた内容で、機会があれば

ぜひ一読して頂きたい。

父親として共に涙し励ましてあげ…これぞファーブル先生といった文面である。

(ファーブル伝 平凡社 p189~190邦訳参照、British Medical Journal :24 January

1998 p317 に小児科医による英訳が掲載)

 しかし、そのクレールもまた結婚の4年後、わずか36歳で逝去している。

結核ではないかと言われているが、まだ薬が無い厳しい時代である。

ファーブル先生の悲しみはどれほど深かったか想像もつかない。

完訳 ファーブル昆虫記 第4巻 下

完訳 ファーブル昆虫記 第4巻 下

 

 

ファーブル伝

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