昆虫学者ファーブル雑記帳

フランスの昆虫学者ファーブルに関する話題を書いていきたいと思ってます。

アヴィニョンの住所

ファーブルがアヴィニョン在住の頃の資料を探したことがある。

とにかくファーブルの名前を見つけると、

何か新しい発見をしたような気分になれるので、

ひたすら資料を探しページをめくっていた。

その中に毎年発行されていたヴォクリューズ県年鑑という書籍がある。

アヴィニョンはこの中に含まれるので、1853年にコルシカから

引き揚げたファーブルの名は1854年版から見つけられた。

リセ・アヴィニョンの物理学の助教授という肩書である。

 

この本の1858年版になると市が立ち上げた無償の講座の中の

物理、化学、植物学をファーブルが担当していたことがわかる。

これは文部大臣デュリュイに頼まれて無償の公開講座を行うよりも

ずいぶん前ではないのか…?

 

さらに行政関連の仕事である公衆衛生評議会の一員として

名を連ね、また初等教育のための候補者の試験と能力証明を

行う委員会にも参加している。

この頃のファーブルの住所はマス通り22番から26番に変わっている。

津田正夫先生の著書ファーブル巡礼では22番のままとなっており

合致しない。

 

さらに面白い書籍があってClement Fanot 著の1868年版

アヴィニョン市ガイドだ。

この本によるとファーブルはタンチュリエ通り14番に引っ越している。

やはりファーブル巡礼によると13番となっていて合致しない。

ここがアヴィニョン最後の住居となったのは家主のリカール嬢に

立ち退きを迫られたからだが、この本のタンチュリエ通り12番を

見るとリカールという名前があった。

未亡人で息子と暮らし紡績の仕事をしていた人らしい。

そういう背景を知るとファーブルを追い出したとはいえ

あまり憎めなくなってしまう。

 

今は google map などで容易に現地の風景を見ることができるので、

暇があればその住所の場所に立ってみるのも面白い。

フランスは住居の壁に番号が入っていて比較的わかりやすいが、

マス通りの住居については通りの長さが当時と異なっていて分かりにくい。

現在はロワ・ルネ通りの Theatre des Halles となっているようだ。

ペトラルカゆかりの石版(ファーブル巡礼参照)を今も入口付近に

見ることが出来る。